〜 1 〜



「いったぁーいっ!!」
 って叫びながら蹴り上げたツマ先が、太一のみぞおちにクリーンヒットしたときだった。キイ兄がちょうど、部屋のドア開けて入ってきたのは。
 あたし、左の胸押さえながら涙目で、太一はなんだか青い顔しながら、キイ兄見上げた。
 キイ兄、会社帰りそのままの格好で、ネクタイ緩めながら、
「教育的指導」
 とか言いながら、太一のわき腹蹴飛ばした。
 女の子の部屋の中で、血のつながりが赤の他人の若い男女が(高2!)2人で床に転がってれば、しかもあたしが涙目で、しかもしかも太一、ヤバげに青い顔してるとなれば、これはもう太一があたしにイタズラをはたらいた、と、解釈されても仕方ない……の、かもしれない、けど。
「キイ兄、誤解、誤解」
 あたし、左の胸、押さえながら太一、弁護してみた。いや別に、だからって同意して「んじゃ、ヤろうか」なんてことになってたわけでも、もちろんないんだけれど。
 キイ兄が来るまでの時間つぶしに本棚の上のほうのマンガ取ろうとしたら、足元に転がってた太一のカバン踏んづけて転んで、あぶねーなー、って太一、手を出してくれたとこにあたしの左の胸があって、がばって掴まれて、そんで、もー、涙出ちゃうくらい痛かっただけで。
「ホント、マジで痛いんだって。なんかね、鼻っ柱ぶたれると痛くて涙出ちゃうでしょ? もー、あんなくらい、ちょー痛いんだよ」
 て言ったら、キイ兄、
「なんでマンガなんだ……」
 と、呆れ果てた顔であたしにも教育的指導を入れた。わざわざ太一のカバンから出した数学の教科書、しかもカドであたしの頭、はたいた。
「人がわざわざ会社帰りに疲れたからだ引きずって勉強を見にきてやってんだから、マンガじゃなくて、問題のひとつでも解いていようという殊勝な気はないのか」
「おお」
 あたし、まだ胸、押さえながら、
「考えたこともなかった」
 なんか、けっこう心の底から言ったの通じたみたいで、キイ兄、呆れ果てまくった顔した。てゆーか、疲れ果てた顔、した。そーだよね、人間24年も生きてれば色々疲れるよねぇ。って、しみじみ言ってみたら、なんかキイ兄、情けなくって泣きそーな顔した。
「いいから……。おれの心配はいいから、おまえがおまえの周りの人間にかけてる多大な迷惑を自覚して反省しろ」
「ええー?」
 なんのことだかぜんぜんわからないあたしを、キイ兄はそれ以上かまいたくないみたいに無視して、テーブルに座り込んだ。あたしの頭はたいた教科書パラパラめくって、目的のページで広げる。テーブル、っていうか、なんか、ちゃぶ台? な感じのテーブルだけど。
 部屋には普通の学習机しかなくて、それじゃ3人でやんのに効率よさそうじゃない、ってことで母さんが物置から引っ張り出してきた。太一が参加するまでは、キイ兄と学習机に仲良く横並びで座ってたんだけど。
「うえぇ〜」
 突然、ヘンな声あげたの、太一で。
 そういや、顔、青くしてた太一、別にあたしにヘンなことしようしたのがバレてヤバくて青かったわけじゃなくて、あたしのケリもキイ兄のケリもクリーンヒットで、どうもさっき母さんに出してもらったモナカ、逆流してたらしい。トイレに駆け込んでった。
「なんだ、無口になってるなあ、とは思ってたんだよ」
「……もっと労わってやれよ」
 キイ兄、哀れそーに言うから、
「えー! だって、ほんと、痛かったんだよ。今も痛いんだよ。他人を労わってる場合じゃないよ」
「……ポイントはそこか……?」
「どこよ?」
「『触られた』じゃなくて『痛かった』」
「そうそう、痛かったんだよ」
 あたしにそのつもりはなかったんだけど、キイ兄、どうにも話が噛み合わないって感じで、でもそのもどかしさをどこにぶつけたらいいのかわからない感じで、
「あー、すっきりした」
 って、戻って来た太一の肩、ポンて叩いて、会話、そこで終わった。なんかなあ、よくわかんない人なんだよ、キイ兄ってさあ。
 てゆーか、そもそもここにキイ兄がいること自体がよくわからない。いや、あの、ベンキョー教えに来てくれてるんだけど。特に数学!
 高2になってからの数学の成績があんまり酷くて、母さんが夕食付きでいつの間にかキイ兄を雇ってた。キイ兄、父さんの上の上のお兄さんの息子で、つまりイトコで。キイ兄が勉強出来る人なのは、そんなのは親戚中で知ってたから、こりゃもう「お願いします」っていうしかなかったんだけど。
 でも、親戚の集まる盆と正月しか会わない人に、週二回、会うのってヘンな感じだった。始めはね。最近は慣れたけど。
 そう、慣れるもんなんだよ。けっこースパルタで、もしかして仕事のストレスここで発散してんじゃないの!? みたいな。人、注意するたびに叩く教科書は必ずカドだし! そんなことにも慣れちゃうんだよ。あ、でも、おかげさまで最近成績上がってきたあたしのヒミツ(だって、家庭教師なんて、なんか響き、うさんくさくない!?)嗅ぎつけた、生まれたときからお向かいさんの太一が乱入してくるようになってからは、キイ兄、ストレス発散も二分割してるんだけど。なんかね、あたしと太一の相手マトモにしてると、よけーストレス溜まるらしー……。むーん。

 まあ、とにかく。
 ガンコオヤジとかなら片手でひっくり返しそうなちゃぶ台で、3人、頭つき合わせてお勉強する。いや、まさに、頭ぶつけそーな距離で。
 キイ兄の出した問題の、3問目、読んでるときだった。
「……美野さん」
 キイ兄、あたしの名前、サン付けで呼ぶなんて珍しいマネする。思わず、
「なんでしょう、孝文さん」
 て、言ったら、左隣の村上太一クンが大袈裟にびっくりした。
「え、だれ?」
 あたし、キイ兄、指差した。
「三谷孝文さん、の孝文サンだよ」
「え、だって『キイ兄』じゃん」
「あ、それ、アダ名」
「どんなアダ名だよ」
「だって、イトコみんなキイ兄のことキイ兄って呼んでんだもん」
「一字もあってねーじゃん」
「だよねぇ。でも昔さあ……キ……」
 言いかけて、首をひねった。あれ?
「……キ」
「サル?」
 きーきー言うあたしに、太一、突っ込みいれる。
「ええ、違うよ。さすがのあたしも、あんたサル呼ばわりすることはあっても、キイ兄は呼ばないでしょ」
「差別だ……」
 太一、不服そうだけど、
「なんか違うんだからしょうがないじゃん」
「なにがだよ」
「あんた平民で、キイ兄お貴族様って感じ?」
「そりゃ身内の欲目だろ」
「えー、そうかもだけど、でもさあ」
 キイ兄はすごいんだよ。なんかそーやってインプットされてるんだよ。
「とにかく、太一とは比べ物にならないんだよねえ」
「そうですか……」
 あたしの力説に、太一、さらになんか言う気力無くしたみたいに、
「そんで、キ、がなに?」
 と聞いてきた。
 ああ、そうそう、なんだっけ? キイ兄の「キ」なんだけど……なんの「キ」だったっけ? とか思ったんだよ。でも。
 思い出せない、んだよ。あれ、なんで?
 思い出せないの気持ち悪くてうんうんうなってたら、
「……みー」
 真面目に勉強しろ、って、キイ兄、あたしの右耳引っ張ったんで、なんだか結局思い出せなかった。
 『みー』は三谷美野の『み』たに『み』の、の『みー』
 イトコはみんな、あたしのこと、そー呼ぶ。キイ兄みたいに7歳も年、離れた人も、もっと離れた人も、近い人でも、とにかくそう呼ぶ。おじさんもおばさんも、父さんも母さんも。……で?
「なんだっけ?」
 『美野さん』呼ばわりしたキイ兄に話を戻す。キイ兄、根気よく、会話が戻ってくるの待ってたみたいで、
「揉むな……」
「は?」
 なにを?
「胸を揉むな!」
 キイ兄、あたしがさっきからずっとさすってた胸、びしっと指で差した。……もんでないよ。
「さすってるんだよ」
「……さするな」
「なんで? だから痛いんだってば、こう、なんてゆーか、じーんとね」
「説明はいいから」
「よくないよ、痛いんだってば。生理前で張ってるし。そうそう、張ってるっていえばね、この前ね、若い身空で乳がんのケンシンなんかしちゃったんだけどね、これがキカイでやったのがまた痛くって。どーやるかってね、あ、もちろん触診もあったんだけど、キカイはさ、鉄板みたいなので上と下から胸、挟んでレントゲン撮るの。もー、これが痛いの痛くないのって、痛いんだけどさあ。センセーに、若い子は張りがあるから痛がるんだよね、って言われちゃったんだよ」
「……みー」
「一緒に行った友達なんて、Aカップで挟む胸がなくて、つるんっていって先っぽだけ挟まれたって、そりゃもう大騒ぎで」
「みー……っ!」
「はい?」
「おまえに恥じらいという言葉はないのか?」
「ハジライ?」
 咄嗟だったので、思わず棒読みで繰り返したら、キイ兄、大きなため息吐いた。
「拾って来い」
「はあ?」
「落とした場所思い出して、さっさと拾って来い」
「……なにをよ?」
「ハジライ」
「んなムチャな」
 って、突っ込み入れたの、太一だった。
「だってこいつ、生まれたときから持ってねーじゃん」
「……それもそうか」
 キイ兄、あっさり納得する。……ちょっとちょっと……。
 あたし、ドンてテーブル叩いた。
「そんなことはともかくっ、勉強だよ、ベンキョウ。学生のホンブンじゃん。さーやろう。太一はさっさと、問題、解く! キイ兄はこの問題、あたしに教える!」
「お、話、そらしてやがる」
「そらしたな」
 ふたりの息、ピッタリ合ったところで、台所から母さんの声がした。
「みーちゃん、お夕飯よー。太一君とキイ君もねー」
「はーい」
 って、張り切って、なんかもー当たり前みたいに返事したの太一で、
「あんたさっき、モナカ食べてたじゃない」
「吐いちゃったもん」
 だから飯、メシ〜。って、部屋、飛び出してった。
 キイ兄も、よっこいしょ、とオヤジくさく腰上げた。
「あーもー、集中できなーい!」
 あたし、喚いたら、キイ兄、小さい子にするみたいにあたしの頭なでなでした。なんかこー、バカにされるんだと思った。よし、どっからでもかかって来い、て感じであたしファイティングポーズ取ったんだけど。
 キイ兄、別になにも言わなくて、台所からのにおいに、
「お、カレーだ」
 と呟いただけだった。よっぽどお腹すいてたのか知らないけど、そそくさと部屋出てこうとするから、なんか、咄嗟に……ホント、咄嗟に、キイ兄の腕、掴まえてた。だから、
「どした?」
 って聞かれても、なにがどーしたのか、あたしにだってよくわかってなくって。……えーと。
「あ、あああああのさあ」
 言葉、探した。我ながら、なんだか知らないけれど必死だった。んで、出てきた言葉は、
「キイ兄の部屋、行っていい?」
 だった。
 言ったあたしも、え、なんでキイ兄の部屋? とか思ったんだけど。キイ兄ももっと思ったらしくて、あたしのことしみじみと見下ろして、そう言うのがものすごく当然のことみたいに言った。
「なんで?」
 そりゃそーくるよね、と納得してたあたしは、どっちかっていうと、無理矢理に普通で当然で平静っぽいの装ってたみたいなキイ兄の、そんな細かいとこに気が付かないまま、
『ほんの冗談です』
 で済ませとけばよかった「キイ兄の部屋、行っていい?」のひとことにしがみついてた。
「キイ兄、会社帰りにうちに寄るんじゃ、すごい遠回りじゃん? だから、あたしが行こうか? って思って」
「勉強済んでから、おまえを送ってかなくちゃなんないんだから、余計におれが手間だろ」
「え、いいよ、別に。送ってくれなくても」
 キイ兄、シブイ顔して「アホか」ってそんな顔しただけじゃ済まなくて、口にも出した。
「それじゃ、おれ、おばさんの夕食、食えねーし」
「あれ? ああ、そっか」
 キイ兄、社会人だし、これでけっこうエリートだし、家庭教師の報酬なんて、母さんが払ってくれてるの微々たるもんだと思うし。お金よりも、ひとり暮らしの身には週二回の家庭料理の夕食はありがたいに違いない。
「そりゃそーだよねー、ご飯は大事だよねー」
 これまた納得したあたしの頭、キイ兄、なでなでのついでにくちゃくちゃにした。
「なにするかなあっ」
 見上げた分、見下ろされた。
「アホ」
「え、なにがアホ?」
 なんでアホ? 今の会話のどの部分にかかってるアホ?
 キイ兄、答える気ないって顔で。
 ……なんか、よくわかんないけど。
 とりあえず、はずみで言い出したことだったけど、よく考えたらけっこういいアイデアかも、とか思ったので食い下がってみた。
「じゃーさー、キイ兄が帰ってくるまでには、あたし、家に帰ってくるから、それまでちょっとキイ兄の部屋、貸してよ」
「なんだそりゃ?」
「あのね、これはね、ほんとーに困ってるんだよ。文化祭のね、シナリオの締め切りが近いんだよ」
 部活、演劇部で。あたしはシナリオ担当で。
 そんなの、キイ兄、知ってるんだけど。
「お願いー」
 おねがいのポーズ、かわいくしてみた。でもキイ兄、かわいいのに興味ないみたいだった。ちっ。
「自分の部屋でやってろ」
「だってー、太一くるんだもん」
「おまえら、兄弟のノリで仲良しだよなあ」
 あたしも太一もひとりっこだし。
「そーなんだよ、だからつい遊んじゃうんだよ。シナリオ進まないんだよー」
「図書館にでも行って来い」
「それはヤダ」
「なんで?」
「……気が付くとセリフ喋ってるから……」
「……ふーん」
 おもしろがってる振りしながら、実は感心してるみたいな、そんな「ふーん」だった。
「ねえ、だからおねがーい。来週一週間だけでもいいからっ」
 いつの間にかあたし、真剣にお願いしてるし。
 台所から母さんが、早くいらっしゃい、と急かす。あたし、神頼みするみたいに両手、顔の前で合わせた。
「おーねーがーいー」
 キイ兄、そういえばあんまりキイ兄のこんな顔見たことない困った顔で、
「来週だけ?」
 念、押してきた。
「うん、もー、絶対来週だけ。一稿上げちゃうし。上がっちゃえばあとは練習に入ってから練習しながら直してくし」
 って、自分の都合だけ押し付けてたの、こりゃいかんって、奇跡的に思ったりして、一応、キイ兄の都合の確認もしてみた。
「キイ兄の彼女とか来る日には、携帯にメールくれれば行かないから、絶対。どんなに興味をひかれても家捜しもしないし、女が来た形跡も残しません。そりゃもう、髪の毛一本たりともっ」
「……アホか」
 おそらく、どう好意的に見ても心の底から呟いたキイ兄は、ポケットから出したキーホルダー、カチャカチャやって、合鍵、くれた。
 あたし、まさか、今の今、合鍵くれると思わなくって、
「え? キイ兄、なんで合鍵、ちゃんとした鍵と一緒にもってんの?」
 それ、なくすときはふたつ一緒で、合鍵の意味ないじゃん。
「……なんとなく」
「うわ、意外なところでズボラな人だ」
 キイ兄、バツが悪いのごまかすみたいに、けたけた笑うあたしの頭、げんこつでぐりぐりやった。
「一応女の子なんだから、暗くなる前にちゃんと帰れよ」
 一応、って言葉が激しくひっかかったけど、ここはおとなしく、
「はい、了解」
 敬礼なんかしてみたあたしに、
「暗くなる前でも、おれが帰る前には家、出てろよ」
「なんで?」
「襲いたくなるから」
 普通に、普通の会話の流れでそう言ったもんだから、ふーんそりゃ大変だ、とかうっかり返事しようとしたとこではっとして、がばって、あたし、キイ兄から、離れた。
「は? ……え?」
 キイ兄、なんか、あたし見下ろして、ふふん、て笑って、笑ったついでにカレーが楽しみなてきとーな鼻歌歌いながら、部屋、出てった。
「や」
 ……ややややられた。
 そうか、あーゆう冗談は、イトコでも可、なのか。
 けっこうダメージポイント大きいな。……今度あたしも誰かに使ってみよ。とか思った。


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