〜 ヒョウメン 7 〜



 ひとしきり、気が済むまで泣いた君は、ふと我に返って僕を感心したように見た。
 どうした? もういいの? 泣きやむの? と僕は眼差しで問いかけてみたけど、君はそれより。そんなことより。
「タクロー先輩、力持ちですね……」
 君をずっと抱き上げていた僕に。ぽかん、と思ったことを思ったままにそう言って、そう言った途端にはっとした。
「わ……あ、すごい、どうしよう。かっ……こよくないです??」
「なにが?」
「先輩が」
「…………は?」
 なにがなんだって? と小首を傾げると、
「だから、先輩かっこいーですね、って言ったんです」
 ……ああ、僕の、ことなんだ。
 って。は? 
「なに、言ってんだか」
 慣れないことを言われて、照れ隠しに、涙に濡れたままの君の顔を、僕の、ジャケットの袖口で拭いた。君はそれがくすぐったかったのか、照れた僕がおかしかったのか、ちょっと笑った。
「先輩、非力な人だと思ってました」
「……そういうイメージだったの?」
「だって、あたしより細くないです?」
「それはない。でも、まあ」
 君より強いと思うけど。広瀬よりはどうかなあ、とは思う……体格が、ねえ。
 そんなふうな、イメージ。
 ……ひとの、イメージ、が。
 見た目のイメージが全部なわけじゃ、ないけれど。
「彩那は?」
 君は、どうなの?
 え? と要領を得なくて小首を傾げた拍子に、まだ止りきっていなくて溢れた涙を慌てて拭いた君に、
「彩那は、他にどんな顔する?」
 言った意味が、わからないかな、と思ったけど。君はなんだかわかった顔をして、どこかにそらしたと思った眼差しを戻して僕の胸元をぽんと叩いた。身軽に僕から離れて自分の足できちんと立った。でもふと、自分の手を見たから。それで僕の手を見たから。
 僕の手を差し出したら。
 僕の手を、握り返してきた。
「……あのね、先輩」
 僕の右手を、君は両手で掴んで、続ける言葉を探す間、指を絡めたりほどいたりする。その合い間に街灯に降り返って、広瀬と目が合う。目が合ったのは君と広瀬なのに。広瀬は僕を睨む。……広瀬おまえまだいたの? という僕の気持ちが通じたのか、さらに睨む。別に、広瀬と気持ちが通じなくてもいいんだけど。
「あの、あたしの、おかーさん、がですね」
「うん?」
「あの……あの雪の日に、おかーさんになってくれて。だからあたし、お迎え、来てた、んです」
「…………うん?」
 返事をするまでに、ぼやっとできた間が、
「ええええと、だから、おとーさん、再婚してですね。それで、あの、新しい、おかーさん、なんです」
 なにがなんだかよくわかってなかった僕に、君は早口で付け足した。
「あたしのおかーさん、ずっと病気で、それで……もう、あの……。あたしが、小学校五年のとき、だったんですけど……」
「……うん」
 君が続けようとした言葉をさえぎってした返事に。
 君は僕を見上げて、少し安心したように吐息した。
 君はまだ、その現実を簡単に口にすることができない。そんなふうに、口にしにくい現実を、口にせずに済むように引き継いだ。
「それで、あの日、あんなに不安そうな顔、してた?」
「……不安そう、でした?」
「と、いうか」
 あのときの君は、不安そうに見えた。不安で不安で仕方がないように見えた。
 でも、だからって触れたら脆く壊れてしまいそうだった、わけじゃなかった。
「不安そうで、それでも、ちゃんと、なにかを受け入れる目をしてた。真っ直ぐに立って、一歩も退かない感じだった」
「……そんなふうに、見えました?」
「うん」
 違うの? と聞くと、
「あたし、それまであんまり新しいおかーさんに会ったことなかったんです。だから……嫌われたり、しないといいな、って思って」
「それで頑張ってた?」
「……はい」
「そ、っか。じゃあ僕は、そんな君に……」
 さらりと、言いかけようとした言葉をふいに飲み込んだら、君が気にしたように見上げてきた。
 ……そんな君を、忘れられなくて。
「あの雪の日以来、また、君に会えないかなあと思って、愛実と遊ぶのを口実にして、よくこの公園まで来てた」
「あたし、にですか?」
「ひと目ぼれ、だったんだ」
 君が、ぽかん、と僕を見たのと、
「はああああっ!?」
 広瀬が激しいツッコミを入れたのが同時だった。……ちょっとぉ。
「広瀬クン、君、うるさいよ」
 心の奥底から言った僕はとりあえずあっさり無視されて、
「うそ、やだ、ひーくん、今すごい邪魔しなかった!?」
「……したかよ」
「した! すごいした! あたしのこの余韻の邪魔した!! うそ、やぁだっ。って、先輩なに今さら顔赤くしてるんですー。それ、もう一回言ってくださいって言っても、嫌がって言わない顔じゃないですー?」
「当たり」
 君は、えー? とつまらなそうに、
「でも、もう一回、言ってみません?」
 そんな、かわいらしく上目遣いで言われても……。
「もう一回、は、ちゃんと言った、よ」
 あの雪の日から……春を迎えて、見つけた君に。
 同じ高校に入学してきた君に。
 一番初めは、君を見つけただけで満足だったのに。
 声を、かけてた。
 君が好きだよ、と、君に伝えた。だから今、僕は君の傍にいる。
 それはそーですけどー、と君はなんだか不満そうな顔をする。でも、君を見る僕と目が合って、君は今さら、逃げるように目をそらした、から。
「……じゃなくて」
 僕の話はどうでもよくて。
「それで彩那は?」
 今日は、どうしてそんな顔してるの?
「彩那?」
 いつの間にか、僕はすっかり君の事を「彩那」と呼んでいて。それで君は観念したみたいにこちらを向いた。
「……あの、ですね」
 そっと僕を見上げて。
「お……」
「お?」
「おかーさんに、怒られてみよう、かな、と思って」
 ………………は?
 と素直にわけのわからない返事をうっかりしたら、
「どうせ、そういう顔すると思いましたー」
 でも、だって、と君は、君にとっては至極正当な理由を述べた。
「あたし、おかーさんに怒られたことないんです……」
「今……の?」
「そう、ですけど。その前、も。……あの」
「なに?」
「あたし、いい子、なんです」
 言いたくなさそうに、でもしぶしぶ、気のせいかふてくされたようにそう言った君は、同じ口調で話を続けた。
 ずっと入院生活を送っていた母親には心配をかけないように、新しい母親には迷惑をかけないように。
 ……ああ、そうか。
「だから彩那は、いつも、笑ってた?」
「あたし、不自然、でした?」
 僕は、笑っていない君も知っていたから。
「なんとなく、ギャップを感じてなかったわけじゃないけど」
「感じて、たんですね」
「でも、笑ってるなら、それはそれでいいのかな、と」
「いいわけないだろ」
 と言ったのは広瀬。
 ……いちいち、広瀬が首やら言葉やらを突っ込んでくる。
 ……いちいち突っ込まれるまではせっかくその存在を忘れているのに。
 でも、さすがに今回は、
「まあ、それはそうだよな」
 広瀬に同意、してみた。
「僕は、笑ってる彩那が好きなんだと思ってた、けど」
 君はいつもいつも、笑ってたから。笑おうとしていたから、そう思おうとしていたけど。
「笑ってない彩那もかわいいし」
「そこかよっ」
 また出た広瀬ツッコミに。
「……おまえ、ほんといちいち突っかかるなあ」
「いろいろ間違ってるあんたに黙ってろって言うのかよ」
 とさらに広瀬が突っかかってきたところで、君が、僕と広瀬に間に入った。
「んもー、ひーくんストップ。先輩は間違ってないよ?」
「そんなわけないだろ」
「なんで? そんなわけあるよ。だってそれ、呪いだもん」
 は?
「呪い!?」
 その響きにぎょっとした僕に、
「あ、間違えた。間違えましたっ」
 君は、呪いじゃなくてなんだっけ? とちょっと考えて、正しい答えを見つけてぽんと手を打った。
「暗示、です。そう、暗示。笑ってるあたしを好きになりますよーに。って」
「おまえ、自分の一面しか見せないで、それで他人と上手くやっていけると思ってんのかよ。センパイなんてどーでもいいと思ってるから、そんなテキトーなこと考えるんだろ」
「違うもん」
「なにが違うんだよっ」
「だって。あたしも先輩、笑ってるほうが好きだもん」
 だから……。
「だったらあたしだって笑ってなきゃでしょ?」
 ……だから。
 君がなにを言っても言い返してやろうと思っていたに違いない広瀬が、勢いで何かを言いかけて、でも、言えなくて。言う言葉が見つからなくて、悔しそうに、ばかみたいに開きかけてた口を閉じた。
 君は、わかった? と追い討ちをする。広瀬は、一生君には勝てない顔をした。君は、わかったならよろしい、とさらに広瀬に言いながら、なぜか、僕を見て少し恥ずかしそうな……というか、なんかを企むような顔をした。楽しい事を思いついた、子供みたいに……。
「あの、だから、おかーさんも、笑ってくれてるほうのが好きなんですけど」
 心配をかけないように。迷惑をかけないように。そうして、そうやって暮らしていたことに不満や後悔があったわけでも、あるわけでも、なかったけれど。
「これからのこと、考えたら……ですね」
「これから?」
「そーです。これから、うっかり先輩と無断外泊しちゃったりとかしたときとかのために、このへんで怒られ慣れておいたほうがいいかな、と」
 ずるーっと音がして見返ると、広瀬が、なにを想像したのか、がーん、という顔をしてアスファルトに座り込んで打ちひしがれていた。そんな広瀬を、どうでもいいと思いつつ、でもなんとなくさすがにかわいそうになって気にしつつ。
「いや……そんな夢見がちな想像はしなくていいから」
「え、しません?」
 ……僕になんて返事をしろと……?
「あのさ、その場合、怒ると怖いのは母親じゃなくて父親じゃないの?」
 僕は、君の父親の方が怖いけど。
「えー、でもおとーさんには怒られ慣れてますよ?」
「あー、そう?」
「はい。口ゲンカでは負けません」
 任せてくださいっ、と君は頼もしくガッツポーズする。でもすぐに、なんだかしょぼんとして、恐る恐る、
「けど、おかーさんは、ええと、どうすればいいのかわからなくて……」
「謝れば、いいと思うけど」
「……タクロー先輩も一緒に?」
 そうだね。
「僕も一緒に」
 そう言った僕の言葉は、簡単に、君の不安を軽くした。しょぼんとした顔も、不安そうだった顔もどこに行ったのか。
「やった。じゃあ、さくさく怒られましょー」
 君は元気に、僕の手を引っ張って歩き出す。
 僕は多分、君が好きだと言った笑顔で笑った。


   ◇


 ただでさえ怒られないわけにはいかないような時間に帰宅した君は、君の母親に叱られている間中、笑い出したいのを我慢してるような顔をしていた。
 君の母親が張り切って君を叱り付けるので、君の父親は全部を母親に任せたのか玄関先には姿を見せなかった。
 ……ちなみに、怒られてる間中、僕は少し、怖かった。と白状すると。
 叱られ終わってなんだかすっきりしたらしい君は、すっきりした顔で、
「え、怖かったです? なにが?」
 なにがって、君は泣きはらした目をしてて。直接言われたわけじゃないけれど、よくもうちの娘を泣かせたわね、と目が口ほどに物を言っていた、ような気がする。と君に言ったら、君も否定しなかったので、多分、そうだったに違いない。
「もう二度と彩那を泣かせません、って心の中で三十七回くらい誓った……」
「びみょーな数字ですねー」
「長々と叱られたわけじゃないし」
「先輩のせいで泣いたわけじゃないんですけど」
 君の家の玄関の門扉を挟んだこちら側とあちら側で。
 広瀬は怒られるのに関係ないからと帰されていた。なんだかやっと、君とふたりきりになった気分で。
「彩那は、笑うの我慢してた?」
「はい。なんか、うわあ、怒られてる、初体験だなーと思って。経験値レベルアップした気分です。おとーさんより怖くなかったし、これならまた叱られても平気ですよ?」
「……『よ?』って言われても」
「叱られちゃうよーなこと、しちゃいます?」
 ……天使みたいなかわいい顔をして、
「怖いこと言わないよーに」
 ざんねーん、と君が笑う。あははーと笑って、笑い声の語尾を、なんとなく、うやむやに飲み込んだ。
「ねえ、タクロー先輩?」
 君は胸元まである門扉の鍵をガチャガチャと、開けたり閉めたりしながら、
「彩那?」
 何か言いたそうにするから、言葉を促したら、
「そうやって。……そうやって、名前、呼んでくださいね」
 君を、彩那、と。
「なんで先輩は、そうやって呼んでくれないのかなーって、思ってたんですけど。なんでです?」
「……笑わない?」
「おもしろい理由があるんですか?」
「僕も、くだらないとは、思ってるけど」
 なんです? と門扉から君は身を乗り出す。ほら言って下さい、とわざとらしくすねたようにくちびるを尖らせた君に、観念して、
「……あいつが、君を呼ぶから」
「あいつ?」
 誰のことやらまったく見当がつかない様子の君に、
「広瀬が、君をそう呼ぶから」
「ひーくん、が?」
 そう、と頷いた僕に、君はさっぱり納得のいかない顔をした。
「ひーくんに、なんの関係があるんです?」
「うん、まあ……」
 そんな君を見てると、ほんとに、なにをそんなにこだわってたんだろうと、思う。だから。
「ひーくんは関係ないですよ?」
 ……そうだね。
「ないよね」
「そーです。だから……」
 玄関の向こうから、君の母親が君を呼ぶ。君は一度玄関に振り返って、でも、なにか言いたそうに僕を見た。
 君が、なにかを言う前に、
「彩那」
 と君を呼んだら。彩那、と呼んだら。
「はいっ」
 嬉しそうに元気よく返事をして身を乗り出した君の髪を撫でた。
「おやすみ」
 さて、帰るか、ときびすを返したところで、先輩、と呼ばれた。
「センパイっ。タクロー先輩、明日のお昼も一緒に食べましょうねっ」
「そーだね」
「ヨーグルト、あたしの分も買ってくれます?」
「同じのでいい?」
「同じのがいーです」
 なにもかもが嬉しそうにして、じゃあおやすみなさい、と手を振る君が玄関の向こうに消えるまで見送った。
 君はなかなか玄関の扉を閉めようとしなくて、おやすみ、と僕はもう一度言った。
 はい、と君が笑う。
 うん、おやすみ。
 また明日、ね。



 君は笑うから。
 僕は、笑ってる君が、好きなんだと、そう思ってた。
 でもちょっと違った。
 僕は、笑ってる君、も、好きだよ。



〜 ヒョウメン おわり 〜