〜 ヒョウメン 6 〜
「寒くない?」
ポケットに両手を突っ込んだ僕に、
「先輩が風除けになってるんで、大丈夫です」
君は風下に回りこんで、僕を見上げて、それからなぜかちょっとふくれて、僕の袖口を掴んだ。……あー、えーと。
……手、かな。
鍋に、デザートにヨーグルトを食べて、花冷えのする夜道を君を送って行くのに並んで歩く。寒さも忘れてポケットから手を出すと、君がその手を繋いだ。……あはは。
「釣れた」
「一本釣りですねー」
「まぐろ?」
「冷凍保存はヤですよ?」
「もったいないから、そんなことしないけど」
「もったいないですか?」
「新鮮なうちに頂きます」
「はーい、もうとっくに頂かれちゃいましたー」
手を繋いだまま、君がぺったり引っ付いてくる。
「あったかいなぁ」
心理的にも物理的にもそう思ったので口にしたところで、ガスッ、と荒い音がした。がす、というか、がしゃ、というか。公園のフェンスになにかをぶつけたような音がした。
ふたりして立ち止まった。
僕と君の家は意外に近い。中学は隣の中学校だった、らしい。
公園のフェンスを、道に沿ってずっと眺めた。ちょうど中学の学区の境目で、こちら側には僕と君で。
あちら側には広瀬が、突っ立っていた。
僕は広瀬に合わせて目線を少し、上げる。なんだかもう、比べるのもばかばかしいくらい背が高い。それから下げる。がしゃ、といったのは広瀬がフェンスを蹴飛ばした音だった、みたいだ。
「あれ、ひーくんだ」
心の底から、なんでいるの? という顔をする君に、
「おっまえ、今、何時だと思ってんだ」
広瀬の声は低い。明らかに機嫌が悪い。
君はそんな広瀬の気分など気にせずに、僕の腕時計を覗き込んだ。繋いだ手は、繋いだまま、離さない。
「何時って、九時……十七分」
ですよねえ、と僕を見る。僕も時間を確認して、そうだねえ、と答えた。
広瀬が足を引っかけたままだったフェンスが、また、がしゃん、と音を立てた。僕と君ののんびりした会話を、広瀬はどんな気分で聞いたのか。想像は、つく。
でも僕と君にはこれがいつもの調子で、君には広瀬がイラつくところの理由がわからない。広瀬のことは、僕よりも君のほうがずっとよく知ってるはずなんだけど。……多分、今は、僕のほうが広瀬の気持ちをわかっている、かもしれない。別にわかりたくもないけれど。
「彩那、おまえ、メシ食わねぇなら食わねぇって、オフクロさんに電話の一本もできないのかよっ」
え?
僕は君を見下ろした。しているものだと思ってたから、驚いた。
「電話、してなかった?」
「……ごめんなさい」
君は、僕を見て、僕に謝る。
「って、僕に謝られても」
「でもっ」
僕に、君はまた謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「……あや……」
思わず君を、彩那、と呼びそうになって、慌ててあやなの「な」を飲み込んで、
「なに? 反抗期中?」
そういうわけじゃないんだろうな、とは思ったけど。そう聞いたら、君は怒ったフグみたいに頬を膨らませた。
「反抗期は中学のときに済ませましたっ」
「じゃあ、なに中?」
君は明らかになにかを考え込んで、しばらくして、
「タクロー先輩に夢中で周りが見えてません……でした中」
「なんだそりゃ!!」
広瀬が勢いよくツッ込んだ。がしゃん、とフェンスから足を外して、その足でずかずかと寄って来ると、君の手を掴み上げた。わざわざご丁寧に、僕と繋いでいる手を。
「痛いっ」
「うるさい!」
広瀬が君を引っ張って、僕の隣にいた君が、広瀬の隣に並ぶ。広瀬は、そんなことは当たり前の顔をした。
当たり前の顔をして、
「今まではこんなことなかっただろ! ふざけてんのか。コイツのせいか!?」
僕を指差す。
君が広瀬の手を勢いよく振り払った……振り払えなかったけど。振り払えないのがイヤそうに、ぶんぶんと掴まれた手を振り回す。
「はーなーしーてーよーぉーぉー」
どんなに頑張っても離れない広瀬に、君はふくれっ面で、助けを求めて、がす、っと、空いていた手で僕の服を掴んだ。
僕はそれではっとして、ああそうか、僕のせいか、と納得して、掴まれていた君の手を取り上げた。
「悪かった。僕がちゃんと確認しとけばよかった。アヤ」
おいで、と君を引き寄せて、
「僕が謝るから、風邪ひく前に帰ろう」
「……違っ。先輩のせーじゃないですっ」
「そう?」
「そうですっ」
「でも」
「……なんです?」
「君が怒られるのが僕のせいで、それで一緒に怒られる、って……なんか、いい、かも」
「ええ、いいですか!?」
「よくない? 『僕のせい』ってところが」
うわマゾだ。こいつヘンタイ、とか広瀬が呟いたのが聞こえた。……広瀬にはなんだか色々、普段あまり使わない言葉で攻撃を受ける気がする。
君は寄って来る広瀬を押し退けながら、また膨らませた頬を、ぷしゅぅ、とへこませた。じっと僕を見るから、
「なに?」
聞くと、子供みたいに抱きついてきた。
「あの、じゃー、一緒に怒られてもらってもいいです?」
「なに? 君のご両親は、怒るとそんなに怖い人だった?」
何度か会った君の母親はとても優しそうな人に見えていたから、きっと父親は怖いんだな。それはそうか、娘の父親だしな。そうかだったら僕も覚悟を決めなきゃ、と、僕はちょっと笑った。
一緒だから大丈夫だよ、と、笑った……んだけど。
「アヤ?」
君は僕にぎゅっとしがみつく。
「怒られるのがそんなに怖い?」
君を覗き込んで、そうして。
……びっくりした。
だって君は……。
君は、とても不安そうな顔をしていた。
……いつか見た、顔をしていた。
あの雪の日のように。
「アヤ……」
呼べば、君はふっと僕を見る。
そんな君に、僕は、安心をした。
僕が、安心、した。
きっと君が見てもわかるくらいに、とても、安心した顔をしたに違いない。
君の眼差しが、どうしてそんな表情をするんです? と問いかけたから、
「僕は、君の傍にいるんだなと、思って」
僕がなにを言っているのか、君はわからない顔をする。小首を傾げて、僕を見たままだ。
「あのさ」
君の、顔を撫でて。
「キスしていい?」
「ぅ……ええ!?」
なにがなんだかわからずに、僕にしがみつくのをやめてしまった君を捕まえて、キス、した。
君の背後で広瀬がかたまったのがわかった。それがなんだかおかしくて、小さく笑いながらキスをした。
触るだけ。それ以上は歯止めが聞かなくなりそうだから、触るだけ。
触るだけのキスの後、君も広瀬と一緒にかたまった。まるで初めてキスしたときみたいにかたまって、どこかびっくりした顔をする。大きな目をさらに大きくする。
僕は笑う。
そんな君が。
かわいくて。
君がずっとかたまっているので抱き締めたら、
「お!」
広瀬がはたと我に返って叫んだ。
「往来で! なにやってんだ!」
君も我に返る。
「なに、って……え、ええと、先輩!?」
僕は抱き締めたままの君の耳元で、
「あのとき、僕は君をただ見てただけだった。でも、今は違うんだなと、思って」
僕は公園の脇道を照らす街灯を見た。つられて君も振り向いた。それでも君は、まだ、わからない顔をしていたから、
「覚えてない?」
「……あたしのこと、ですか?」
「そう」
君のこと。
「……彩那」
君の……。
君を、彩那、と呼んだ。
「君はあのとき、あの場所に立ってた。雪が、降ってたよね」
僕が高校生になってはじめての冬だった。初雪の降った夜だった。
「君は中学三年生だった、よね?」
あ、と君はなにかに思い当たる。
思い出した? と僕は君に聞いたのに、
「忘れるわけないだろ」
ぶっきらぼうに、不機嫌そうに、というか不機嫌に答えたのは広瀬だった。
「おまえには聞いてないよ」
「じゃー、彩那に聞いてんのかよ」
「彩那にしか、聞いてない」
抱え込んだ僕の胸元で君のくぐもった声がしたけれど、なに? と聞く前に広瀬に嫌味みたいに見下ろされた。
広瀬の表情はわかりやすい。僕が気に入らなくてしょうがない顔をする。同時に、呆れ果てた顔をした。
「あんたさあ、最悪」
広瀬の声に、それまでは僕にされるがままだった君が、君から僕にしがみついてきた。アヤ……? と、広瀬より君を気にした僕に聞こえた声は、
「ほんと、あんた、なんでそんなに無神経なわけ」
問いかけではなくて、決め付けた言葉だった。
いつもより悪意のある広瀬は変わらないままの呆れ果てた表情で、でも僕ではなくて君を見た。
「彩那」
君を、彩那、と呼ぶ。
広瀬はいつも君を、彩那、と呼ぶ。そのたびに僕がどう思うのかなんて、広瀬にはどうでもいいに違い。
僕は君を離さない。
君も、ぼくにしがみついたままで。
「彩那、おまえ、コイツに言ってないんだろ。言えないようなヤツとなに付き合ってるとか言ってんだよ。上っ面ばっかじゃねーか。そんなん、どーせ長続きしねぇんだよ。そんなヤツに引っ付いてないで、離れろっ。てゆーかさっさと別れろっ」
どさくさにまぎれて、今までは一応我慢していたらしい本音を喚いて。その言葉の勢いのまま広瀬が君を奪おうとしたから。
君に触るのに、ほんの少しのためらいもなく手を伸ばしたから。
「触るな」
広瀬の手をかすめて、さらうように君を抱き上げた。抱き上げた君は、きゃっ、と勢いにびっくりの声を上げて、地面からの距離を測るとバランスを取るのに慌てて僕の首に腕を回した。
「せせせせ、先輩っ?」
同じ目の高さで、
「ほ、捕獲、ですか?」
「じゃなくて略奪」
「え、なにからです?」
広瀬から。と言おうと思ったけれど。
僕は、広瀬相手にけっこう必死なんだけど。
なんだか、どうにも、君の視界にはまったくさっぱりこれっぽっちも広瀬なんて入っていないみたいで。
というか、入っていない、から。
僕は広瀬を見て、それからわざとらしく、さあ、と肩をすくめた。広瀬が悔しそうに奥歯を噛み締めたのがわかった。
広瀬の気持ちを知らない君は、じゃあなんでこんなことになっているのか、不思議そうな顔をしたから、とりあえず。
なにから略奪かって、
「世界から」
とか言ったら、君は大きく瞬きして、声に出して笑ったかと思ったら、
「先輩、あのとき、見てたんです?」
「……うん」
でも、
「見てただけ、だったけど」
「やだ……もぅ。あたし、すごい顔して、ませんでした?」
「してた」
「だって……っ」
「今も、してた」
「……だ、って……」
「だって?」
「これ、でも、必死なんですぅ」
「なにに?」
聞いたら、君は、先輩、と小さく呟いて、また、抱き付いてきた。
抱き付かれて君の表情は見えない。でも。
すん、と鼻をすすった君を。
「アヤ……?」
すぐ傍で覗き込んだら、
「やだぁ、見ないでくださいー」
君がそっぽを向く。追いかけて目が合ったら、赤くなった目で、
「先輩は、あたしの笑ってる顔だけ見ててくれればいーんですー。もー、見ーなーいでーくーだーさーいーぃー」
僕の視線をそらそうと、ぎゅうぎゅうと僕の横っ面を手で押しやる。
「……こらこら」
両手はふさがっているので声だけで対抗する。力尽くなら、簡単だけど。
多分、ほんとうに簡単だけど。
……泣いてる、君に。
「……アヤ」
頬には君の手のひらの感触。
「彩那」
そう呼んだだけで、ふっと手のひらの感触が柔らかくなった。
「……彩那」
もう一度呼んだら、観念したように手を引っ込めた。君は子供みたいに、愛実がいつも叱られた後にそういう顔をするように。うー、とか、むー、とか小さく唸って僕に額を押し付けてきた。
そうして、泣き出す。
もう何度目か、小さな子供みたいだ、と思う。女の子はこうやって泣くものなのか、と思う。……他の、女の子のことなんて知らないけど。
というか、君のことも知らなかった。
「そうやって泣くんだ?」
僕の部屋で、ベッドで、僕を受け入れて、そうして流す涙とは違う。
君は、そうやって泣くんだ?
けど。
僕は笑ってた。
我慢しようと思ったけれど肩が揺れた。
君は泣き顔のまま、なんで笑うんです? と膨れっ面になった。睨まれても、それでもやっぱり、おかしくて。
「え、だって」
だって、ねえ。
「泣いててもかわいい」
「……なっ、え、あのっ」
君は反応に困った顔をする。
「……かわいい」
額にくちびるを押し付けたら、君は困ったように俯いて、そのまままた泣き出した。
広瀬は君から離れる気がないらしく、その場所で座り込んだ。
僕は君が泣き止むまでずっと、君を抱いてた。
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