〜 ヒョウメン 2 〜
まくし立てられて、今度は僕が閉口した。
いや、口はぽかんと開いていたかもしれないけれど。どうにも、ことばが出なくって。だって。
……なにが、なん、だって?
広瀬の、広瀬が理想とするところの妄想みたいなその内容を頭の中で反芻してみた。
「……ばかみたいに浮かれてる……?」
そんなふうに端から見えているらしいことに、広瀬の言うのとは違う意味で愕然とした。一気に顔が熱くなる。僕はそんなに君に浮かれてる?
熱くなった顔を隠すように俯いたところで、君が校舎から駆けてきた。足音に顔を上げる。
君はいつでも元気に走ってくる。僕にぶつかりそうな勢いでやってきて、
「う、わぁっ」
その勢いのまま体当たりしてきたのを受け止めた。
君のすごい勢いにびっくりして、広瀬はびっくりした顔をした。そんな広瀬には気が付いていない様子で、君はまた僕の腕時計を覗き込んだ。
「ねえ、ねえ、三分、切ってました?」
「え、あ、多分」
僕もちょっとびっくりしてた。勢いのいい君……にもびっくりした、けど。なにより、当たり前みたいに僕の腕に飛び込んできた君に……。
「やった、新記録!」
どの記録と比べて新記録なのか、と突っ込もうとしたら、
「あれ、センパイ顔、赤いですよ?」
逆に君に突っ込まれて、言い訳をしようとしたところで広瀬が君の体操服の背中を引っ張った。
飛びついてきた君にびっくりしてたままだったとか、顔が赤いままだったとかで僕の反応は鈍ってて、君をあっさり広瀬に取られた。
でも、僕がそれを気にしたほど、君は気にしないで、きょとんと広瀬を見上げた。ふたりは幼馴染、というものらしく、
「あ、ひーくんだ、いたの?」
「いたの? じゃねーっての、なんだ彩那、おまえ、女のクセにあの勢いはっ」
「だって急いでたんだもん」
「だってとか言うな、だいたいなんだこのカッコウは!?」
「体操服だよ。さっきまで体育だったから」
「真っ黒じゃねーか、着替えろ、さっさと」
「なんでー?」
「とか心の底から不思議そうな顔して言うなっ。バカかおまえ。みっともないカッコしてんな! キレイにしてろ!」
「やだもー、ひーくんそーゆうとこ、うちのお父さんみたい」
「あのオヤジさんにして、なんでこんな娘なんだよっ」
「あたし、おかーさん似だもん」
「おまえのオフクロさんは、いっつもちゃんとキレイだったろっ」
勢いよく言った広瀬は、でもすぐに、なにかマズいことを言ったような顔をした。でも僕がなにかを察しようとするより先に、
「……ひーくん、うるさい」
君はふくれっ面で広瀬を睨むと、ぺ、と広瀬の手を払った。それから、
「あ、そうだ」
なにかを思い出した君は、もうふくれっ面を引っ込めて、僕から上着を取り上げた。
君の視線が僕に戻ってくる。
「キレイといえば。先輩、上着キレイになりました? って、なってないじゃないですかー」
こんなことだろうと思った、という顔をする。でも、だからがっかりしているわけじゃなくて、予想通りだったのが嬉しいみたいに。
「クリーニング行き、決定ですっ」
「お茶でいいよ」
「え、タクロー先輩がお茶代負担します? おごり?」
「じゃなくて」
いや、僕がお茶代をケチるわけじゃなくて。
君から上着を取り上げて、
「そんなに汚れてないよ」
「汚れてますってば」
「アヤも、体操服真っ黒なの気にしてないだろ」
「気にしないとダメですか?」
「じゃなくて、僕も気にしないってこと」
「……なるほど」
すごく納得したように、君はぽんと手を叩いた。
「じゃあ、クリーニング代はお茶代ってことで」
と僕の隣に座り込んで膝の上に弁当を広げる。
ここまで全力疾走してきたらしい君は暑そうに首元を手の平でぱたぱたあおぐから、僕はまだ冷たいはずのヨーグルトを差し出した。
「あげる」
「あ、はい、半分いただきます」
「全部。新記録のお祝い」
「ホントですか?」
「ほんと」
「やった、新記録バンザイ。あ、スプーンください」
と言うので、どこにやったかな、とふたりでヨーグルトの入っていたビニール袋を覗き込む。奥の方にプラスチックのスプーンを発見したところで、そのビニール袋を広瀬に取り上げられた。
僕と君が広瀬を見上げる。
「あれ、ひーくん、まだいたの?」
僕が言いたかったことを君がさらりと言った。
君が言った方が広瀬にはダメージが大きい。多分、君はそんなことわかっててやってるわけじゃない。ということを、もちろん広瀬もわかってるんだけれど、どうにも、納得できない感じで、
「ヨーグルト、とかでこいつの気を引こうなんて、センパイもかわいいスね」
は?
「いや、そんなこと思ってないから」
心から思ってないから。
「じゃなきゃ男がこんなちまちましたモン買わないすよね」
広瀬には広瀬の定義というものがあるらしい。……そんなことより単に、僕にナンクセをつけたいだけかもしれないけれど。
君が何かを思い出したように、
「そーえいば先輩、いつもヨーグルト買ってますよね?」
「母親がね、体にいいから一日ひとつ食べなさい、ってね」
「マザコンすか?」
僕は昼食の入ったビニール袋を取り返すのも忘れて広瀬を見た。広瀬は、図星デショ、という顔をする。僕は……。
「うわ、びっくりした……」
思ってもみなかったことを言われてびっくりした。そうか、そういうふうに、取れるのか。おもしろいな、と思っていたら、君はなんでもないみたいに、
「自分のおかーさん好きなのは、あたりまえですよねえ?」
ということばに、広瀬はちらりと君を見た。何か言いたそうな顔をする。でも、君はなにも気にしていない様子だったので、僕も広瀬は気にしない。
「まあ、そうなんだけど……ヨーグルトは、なんとなく習慣。体にいいのか悪いのかは、いまだになんだかよくわからないけど」
「でも、先輩がヨーグルト食べてる姿はかわいーと思います」
「え」
か、かわいい?
「……そう?」
「実は、前からけっこう思ってました。しかも激写済み」
君は弁当の袋の中に一緒に持ってきていた携帯デンワをなでなでと撫でる。
「プラスチックのスプーンくわえてるとことかねー」
「……撮ったの?」
「ばっちりです」
「って、いつの間にっ。ちょっと見せて」
「ヤ、です」
「僕の写真なんだから、僕には見る権利が……」
「ないっ。ないですー。先輩、ケイタイ渡したら消しちゃうでしょー?」
「……よくわかってるね」
「もちろんです」
君は携帯デンワを腹に抱え込む。僕は笑った。
「さっき、バスケットボールもそうやって守り抜こうとしてたよね」
「はい、守り抜いてみせますっ」
「でもくすぐられてあっさり取られてた」
「わあっ。ナシ、先輩はそれナシですよ!? 先輩がやったらセクハラですよ!?」
「セクハラ……いい響きだよね」
両手の指をわきわきして見せる。君は、ぎゃあああ、と喚いた。
「やーだ、タクロー先輩えっち!!」
「はいはい」
「って、えっちー! って言ってるんだから、少しは動揺してくださいよっ」
「でも君には言われ慣れてるし」
「だって先輩ホントにえっちなんだもん。さっきだってあんな場所で……っ」
思わず頬を押さえた君に、
「自覚もしてマス」
でも、そんなの、
「そんなの、アヤだって知ってるくせに」
「……なっ」
君は、いったいなにを思い出したのか顔を赤くした。
「なに? なにを思い出してんの?」
耳元で聞くと、
「え、あの……」
君は顔を赤くしたまま、ずいぶん無防備な表情をした。
……ヤバイな。なんでここ、学校なんだろう。そんなことを考えていたら、がさ、といやな音がして、見向くと広瀬が僕の昼食を落としてた。僕の……昼食が……。
君ははたと我に返って、
「と、とにかく、この写真はあたしのですっ。誰にも見せたことないんだから、先輩にも見せてあげません」
「……そんなのをそんなに大事にしなくても、本人がすぐ傍にいるのに」
「それはそれ、これはこれです。もー、いいじゃないですかー。あたしがなに大事にしたってー」
「それもそうだけど」
「ね、でしょ?」
「だけど」
「な、んです?」
君はうかがうように僕を見て、それからなにか勝手に、ああそっか、と納得した。
「じゃあ、これで写真撮影代てことで」
君の、手が。
たった今まで携帯デンワを守っていた手が、もう携帯デンワなんてどうでもいいように、僕の顔に触った。触った、と思ったら、まるで小さな子供がするみたいに勢いよく、くちびるを僕の頬に押し付けた。
僕はかたまる。かたまったまま、でも口だけは、
「……ほっぺちゅー。安っ……」
対価に意義を唱えてみたり……。
「安いですかぁ? でもタクロー先輩顔、赤いですよ?」
君は勝ち誇ったように笑う。笑う、から、別にこのまま負けたままでもよかったんだけど。
僕は顔を隠すようにして、多分無残な姿になった昼食を拾い上げながら、
「じゃあ、残金は今日の放課後にもらおう。週末にゆっくりでもいいけど」
「ええ!? の、残ってません。きっちり払いました、今っ」
「足りないよ。……ダメ?」
えー、と君は一応、不満そうな表情をしつつ、
「だめ、かと聞かれると、だめでも、ないです、けど」
どこを見たらいいのかわからないように僕の昼食を見た君が、今度は負けた顔をした。
同時に足音がして、広瀬が、きびすを返した。というか、逃げた。僕と君の会話から。
「あれ、ひーくん?」
君の声にも立ち止まらない。
「かわいそうなことした、かも」
「え、なにがです?」
「いや……まあ、ねえ」
多分ほら、そうやって君になんとも思われてないとこ、とか。
広瀬は君になんとも思われてないんだよ、と見せ付けるみたいにした、今の会話、とか。
ほんとうはちっとも、かわいそう、なんて思ってない僕の気持ち、とか。
僕と君の関係が、広瀬の中ではっきりしたに違いないこと、とか。
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