〜 ヒョウメン 1 〜



 寒さの降る夜の中で、君を見た。
 確か、雪が、降っていたよね?
 街灯に照らされた雪が降る向こう側に、君は立ってた。
 とても不安そうな顔をして、でも、真っ直ぐに背筋を伸ばして、立ってた。

 そんな君の姿を忘れたわけじゃない。
 でも君は笑うから。
 僕は、笑ってる君が好きなんだと、そう思ってた。


   ◇


 ひと際大きな笑い声に見向くと、君が、クラスメイトと一緒に笑ってた。運動場のずっと向こうで。
 多分、授業ではバスケットボールをやっていたはずなんだけれど、今の君はバスケットボールを抱えて走り回ってる。一歩、二歩、三歩……四歩、五歩?
 そんなルールあったっけ? 僕は笑う。
 クラスメイトが何人かで君を追いかける。
「ちょっ、もー、あーやー! 彩那(あやな)!! ボール返せー!!」
 君は追いかけられてるのが楽しくって仕方ないように笑いながら、とうとうボールを抱え込んだ。どうしても渡したくないらしい。……というか、意地になってる。
 でも抱え込んで座り込んだのがマズかった。すぐに何人かに囲まれて、くすぐられてボールを取り上げられた。
 そこで君が僕に気付いた。身軽そうに跳ねるように立ち上がって、駆けて来る。
 運動場の向こう側からあっという間に駆けて来て、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の境目で、少し切らした息で僕を見上げた。
「センパイ、タクロー先輩、今からお昼ですか?」
 まだ新学期は始まったばかり、桜前線がやっと頭上を通過したところで、僕は制服のブレザーを着込んでても少し寒いくらいなんだけれど、君は脱いだジャージを腰に巻きつけて、半袖の体操服で、うっすら汗までかいている。
「アヤ」
 と呼ぶと、君はいつものように少し、不満そうな顔をする。でも僕は、君をそう呼ぶ。
「君はいつも元気だねぇ」
 指差した体操服は、抱えて持ったバスケットボールのせいで泥だらけだった。
「昨日の雨のせいで、運動場、まだどろどろしてるとこあるんですよぉ。でもほら、体操服は洗えばいいから」
「顔もね」
 君の頬を、手のひらでなでた。
「砂、付いてるよ」
「うわ、はい、洗います。洗ってきますっ」
 慌てて回れ右する君に、
「早く着替えもしないと、昼の休憩短いんだから、昼飯、食いっぱぐれるぞ」
 いろいろ言ったつもりはなかったけれど、君はいろいろ言われた顔で、
「うわあ、そんなにいっぺんに言わないでください。慌てちゃうじゃないですか。ええと、まず……」
「顔洗って、着替えて、それから弁当?」
「そーですよね、顔、洗って、着替えて……」
 指を折りながらひとつずつ君は確認をする。ひとつ、ふたつ……でもなかなかみっつめの指を折らない。
「どした?」
 僕はそういえば一緒に歩いていた友人と顔を見合わせた。一緒に購買でパンを買って来たところだった。
 君はその友人Aと僕の間に割って入って、僕の腕に抱き付いた。
「……アヤ?」
「タクロー先輩、捕獲っ。めんどーなので、お昼一緒にどーですか??」
 ……なにがどうなっていきなり「めんどー」なのか僕にはよくわからない。でも、とりあえず、
「……捕獲された」
 少し途方にくれて呟くと、友人Aはかたかた笑って僕を指差した。
「アヤちゃん、アヤちゃん、それ、煮て食うときは呼んで」
「食べませんっ」
 友人Aの冗談に、君は本気で対応する。友人Aはさらに笑って、
「じゃーアヤちゃんが食べられないように、気を付けて。拓郎、達者でな」
 ひらひらと手を振って退場する。君はびっくりしたように僕を見た。
「え、タクロー先輩、あたしのお弁当も食べます?」
「……いや」
「ですよねえ」
 君はがさがさ、僕の持ってたビニールの買い物袋を覗き込んだ。
「ああ! でもあたし、ヨーグルトほしーです。ひとくちくれます?」
「半分、どーぞ」
「やった、先輩、太っ腹。って、わあっ!」
 なんだか突然叫んだと思ったら、君は力任せに僕の腕を引っ張った。最後の「わあっ」には僕の声も重なって、
「なに? どーした?」
「あたし、泥だらけだったの忘れてて。ごめんなさい、先輩も汚れちゃいました」
 君が抱き付いた右腕が、
「いいよ、別に」
「よーくーなーいーでーすー。すぐ拭けば落ちるかも。落ちなかったらクリーニング代、出しますからっ。先輩、クリーニング出してる間の替えの上着、持ってます!? やだ、もう、春休みにクリーニング出したとこですよねぇ? ごめんなさいー」
 連れて行かれた水場で、君は口も手もよく動かす。ジャージのポケットに突っ込んであったハンドタオルを濡らして、僕の右腕を取る。
「自分でやるから、顔、洗いなよ」
 ハンドタオルを取り上げて、別にどうでもいいんだけれど、とりあえず汚れたところを拭いてたら、
「あああ、こすっちゃダメです。叩いてください、ぽんぽんって。こするとね、ヨゴレがますます繊維の奥に入り込んじゃって取れなくなるんですよ」
 結局、君が僕の腕を拭く。顔に砂をつけたままで、
「僕はいいから」
 また取り上げたハンドタオルのキレイなところで、君の顔を拭いた。右の頬……柔らかい、肌。
「……やばい」
 僕は、そうやって呟いたのを免罪符に、
「え?」
 なんです? ときょとんとする君の頬にくちびるを押し付けた。
「せ、先輩っ」
 顔を真っ赤にして慌てる君を抱き締めてみたところで、腹が鳴った。ぐう、と勢いよく、遠慮なく。
「先輩、いろいろ正直者ですねぇ」
 君が笑うので、僕はなんだかがっくりして君を手放した。
「食欲と性欲ってどっちが優先だったっけ……」
「食欲、じゃないんですか?」
「だっけ? 腹減ったら、体力ないしね」
「体力、あっても、場所を考えてくださいね」
「……場所」
「それから、時も、ですよ」
 時、と言って思い出したように、君は僕の袖口をめくって腕時計を覗き込んだ。
「ほら、もうこんな時間じゃないですかっ。五分……三分で戻ってきますから、えーと、あそこの日当たりのいい芝生のところで待っててください。お弁当取ってきます」
「三分……?」
 ずいぶん素早いねえ、という意味を込めて言ったら、
「はい、ダッシュで行ってきます」
「ダッシュで着替えるの?」
「あー、着替えはもういいです。このままでも授業出れるし」
「……いいんだ?」
「ダメですか? でも着替えててお昼食べられない方が辛くないです?」
「それはまあ、すごくそうだね」
「ほら、食欲最優先ですよね」
 食べ物バンザイ、と君は小さくガッツポーズをする。それで僕が笑ったのを確認すると、
「あたし帰ってくるまで、制服、ちゃんと拭いておいてくださいね。こすっちゃダメですよ」
「はいはい」
「キレイになったら、浮いたクリーニング代でお茶しましょーね」
 まるで小学生の徒競走のように、位置について、よーい、どん、と自分で言って駆け出した。
 君は走ることに精一杯のはずなのに、校舎に入る直前に振り返って僕を見た。その表情に、僕も笑う。
 ……僕は、そうして君だけを見ていたことに、笑った自分で気が付いた。
 腹が減って、大声なんて出したくない気分なんだけれど、それでも、ここから君を呼んで……君の名前を呼んで、それから、伝えたい言葉が込みあがってきて、言ってしまいたくってどうしようもない気持ちになる。
 とりあえず、君は校舎に入ってしまったから。
 大きく息を吐き出して、それで気分を紛らわせると、空腹を主張する腹を撫でて空腹も紛らわせて、君が指示した日向に座り込んだ。
 まだまだ肌寒い、と思っていたけれど、日向にこうして座っていると太陽に照らされてだんだん暖かくなってくる。上着を脱いだところで、できればあまり目を合わせたくなかった人間と、目が、合った。
 僕はできるだけ不自然でないように目を逸らした。そうして君を気にする。やっぱり気が変わって着替えてくるからもう少し時間がかかるといい、なんてことを考えた。無意識に、やがて君がやってくるはずの校舎を見返る。そんな仕草を、どうも、勘違いされた、らしい。
「拓郎センパイ」
 できれば、あまり、目を合わせたくなかったヤツに声を、かけられた。
「そんなあからさまに無視しなくってもいいんじゃないスか?」
 僕が校舎を見返った理由は……、
「別に、おまえを無視しようなんて思ってないよ」
「でも、関わりたくないって顔スね」
「そりゃ、ねえ」
 とりあえずごまかしてもしょうがない本音を言うと、頭の上から溜め息が落ちてきた。その溜め息が、全部を諦めたような、そんなかわいらしいものだったならよかったんだけれど。どうにも、イラついたようなものだったから、
「おまえこそ、そんな顔するなら、僕に声をかけないでいればいいと思うんだけど」
 見上げた顔はいつものように僕を睨むように見下ろしている。
 座っているのでものすごく見下ろされているんだけれど、立ってもどうせ見下ろされたままなので、あえて、このままで、
「おまえは、僕を無視しないの?」
「おまえって呼ぶのやめてくれませんか。なんかムカつく」
「ムカつく理由は呼び方のせいだけでもないだろ」
「でもムカつくんス」
 僕の溜め息は、どんな溜め息に聞こえたのか。諦めたように、か、それとも、イラついたように、だったのか。
「……広瀬は、僕を無視しないの?」
 ひとつ年下で、でもひょろひょろと身長の高い広瀬は、身長以外はそれなりにガキっぽく、
「あんたを無視してると、あいつがちっともオレの視界に入らないから」
 あいつ、と言われて僕が思い浮かべた彼女を、広瀬も思い浮かべた顔をした。
 どんな彼女を思い浮かべたんだろう。元気に楽しそうに笑っている彼女? それとも違う彼女? でも、それがどんな彼女の姿でも。
 それは僕のだよ。おまえが、勝手に思い浮かべるな。
 そんなふうに思う僕も勝手だとは思ったけれど、声は、自然に低くなった。
 彼女は、いつも僕の隣にいる?
「そう言われるほど、僕的には、いつもそんなに一緒にいるわけでもないと思ってるけど」
 がす、っと広瀬が足元を蹴った。
「あんた、ほんっと、ムカつく」
 心の底から、セリフ通りの表情をする。僕はそんな広瀬を見上げたまま、
「でもまあ、広瀬にそう言われても反論できないくらい、いつも一緒にいられたらな、とは思うんだけど」
 実際にそうならどう思われても構わない。でも実際はそうでもないのに勝手にいろいろ思われているのは不本意だった……んだけど、僕のセリフは広瀬の気に入らないものだった、らしい。
「あんた、ほんっとに嫌味スね」
「人には人それぞれの基準があって、僕と広瀬との基準がずれてるだけだよ、いろいろね」
 そう、いろいろ、とことん。
 僕はわざわざ広瀬に関わったりしないのに、広瀬はわざわざ僕に関わってくる。
「あんたと同じ基準になんていなくてせいせいする」
「好みのタイプは同じなのね」
 本当に、どうしてこうズレちゃってるんだろうね、という気分で言った。
 広瀬は顔を真っ赤にして閉口した。
 あとで友人Aにこの昼休みの出来事を話したら、
『拓郎クン、きみ、そのうち広瀬っちに背中から刺されるから、気をつけろ』
 と忠告された。
『なんで?』
『アヤちゃんを手に入れて、ヨユーシャクシャクだから』
『は? どこが?』
『ヨユーのくせに、ヨユーなさそげだから』
『なんだよそれ?』
 と聞き返したけれど、まあ頑張りたまえ、と肩を叩かれただけだった。
 広瀬が口を閉ざしたので、会話が途切れた。と、思ったら、広瀬は負け惜しみみたいに、でも、
「あんたは、どうせ元気な彩那しか知らないんだろ。だからそんなにノーテンキなんだ」
「それ、どういう意味?」
「あいつの表面しか見てないあんたなんか、さっさと愛想尽かされればいい」
 負け惜しみだと思ったそれは、気が着けば勝ち誇ったみたいに、
「あいつの泣き顔見たことあるかよ。ないだろ!? なんにも知らないあんたなんかおよびじゃないだよ。そんなこと、早く彩那が気付いて、それであんたも気付いて、バカみたいに浮かれてた自分に愕然とすればいいんだ。ザマみろっ!」



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