〜 色、いろいろな色 3 〜




「ねえ、シロ、ねえねえっ。この小説映画化決定したって知ってる?」
「ネットのニュースで見た」
 教室の窓際の席で、シロは斜め後ろに振り向いた。
「ユメ、その本、ワカバに貸したトコなんだけど」
「先に読みたいって言ったら貸してくれたんだもん」
 斜め後ろの席からワカバがひらひらと手を振る。微妙に情けない顔をしているように見えるのは気のせい、ではない。
「青肌刑事役はまだ選考中なんでしょ? でも青い肌っていうと、けっこうあの人か、あの人か……」
 それともあの人か、とユメは芸能界にはわりと多い夏の空のような青い肌の俳優の名前を何人かあげる。
「映画、始まったら行こーね」
「近所の映画館でやればね」
「近所じゃなかったら?」
「人様の迷惑だからパス」
「まーたレンタル始まるまで待つの? バスや電車なんて、そんなのたまたま乗り合わせた人たちが勝手にシロを変な目で見てるだけじゃない。そんなのは向こうの勝手。シロが電車に乗るのはシロの勝手」
「おれがバスに乗らないのもおれの勝手」
「そんなんじゃ、一生近所から出られないでしょー!?」
「んー」
 シロは頬杖を付いてユメの質問について考え込んだ……わけではなかった。ユメには興味がなさそうに窓の外を見る。
 グラウンドで、どこかのクラスが次の授業の体育の用意をしていた。バスケットボールをカゴごと体育用具室から引っ張り出している。
 ユメは持っていた小説でシロの頭を小突くと、呆れたような顔をした。
「シロ、バスケ部、このままずっと入んない気?」
 呆れたような、ではなくて、呆れている。
「あたし、ちゃんとテニスと両立してるんだから、シロだってやればできる。絶対」
「絶対?」
「やってやれないことはない。やらなきゃやれることもできないっ」
「それはそうだけど」
 シロは、小突かれた頭を、特に痛いわけではなかったけれど痛そうに撫でながら、のんびりと、
「勉強と両立なら、ユメの言う通りだけど。でも」
「でも?」
「バスケは団体競技だから」
「だからなによ?」
「だから、もういい」
「なにがよっ」
「映画と一緒」
 ぽつり、と言ったシロを、ユメがまた本で殴った。思い切り殴った。シロは今度は本当に痛くて涙目になりながら、
「暴力反対」
「なにさ、やり返してみれば?」
「……負ける勝負は挑まない」
 痛くて、本当に痛くて、シロはユメの潔さが気持ちよくて、小さく笑う。かと思うとうつむいて、声に出して笑った。
「ええ!? なに!? なにがおかしいの!?」
「ユメ、男前……」
 言いながらユメを見て、シロはぎょっとした。
 一瞬……。
 ほんの一瞬、目を、疑った。
 ユメの、肌は、黄色。きれいなきれいな自慢の黄色。
 その肌の色が、一瞬、違う色に見えた。
 シロはユメを凝視する。
「シロ?」
 どうしたの? とシロの目の前で手のひらをひらひらさせるユメは、いつもと同じ、もう、黄色の肌だった。
 ……黄色。本当に?
 シロは確かめるのに、咄嗟にユメの手を掴んだ。ぺた、という肌触りも、はりのある肌も、確かにいつものユメの肌、だけれど……。
 授業開始のチャイムが鳴ってユメは自分の席へ戻っていく。シロはユメを目で追った。追いながら、自分の頬に触ってみた。
 シロの肌はユメの肌とは違う。全然違う。
 なのに今、同じような肌の色に見えた。シロの肌色よりはもう少し、白かった。イチゴを包んだ大福のように、少しピンクがかっていて、健康そうな肌だった。
「……健康?」
 見たことのないそんな肌の色を、咄嗟に、どうしそんなふうに思ったのか。
 どうして、そんなふうに、見えたのか。
 教師が教室に入ってきて、クラス委員の声で起立するクラスメイトをシロは見回した。
 教室の中は、いつもと変わらないいろいろな色をした生徒がいる。何人かはシロと目が合うと気持ち悪そうに顔をそむけた。何人かは、人懐こそうに笑いかけたり手を振ったりしてくる。
 いつもの教室だ。
 シロは安心して、礼をして着席をすると教科書を開いた。


 廊下の真ん中で、あからさまに足を引っかけられて、ふらついたシロはワカバにもたれるように抱き付いた。
「なにすんだよ」
 と相手を睨んだのはワカバだった。
「いいよ、放っとけ」
 シロは相手も確認せずに、態勢を立て直すと歩き出す。さっさと数歩分置いていかれて、ワカバはシロを追った。
「おい、でもあれ、わざとじゃん」
「そんなの日常茶飯事」
「そうだけど、せめて、なんか言ってやれよ」
「時間の無駄」
 だからおまえも気にするな、とシロは追いついて来たワカバと並ぶ。
 シロはなにも気にしていない様子で歩く。実際、あまり気にしていない。気にしていたらキリがない。
 ワカバが廊下を振り返った。シロの足を引っかけたのは上級生だった。まだシロたちを見てひそひそと何か喋っている。そのひそひそとした態度が気に障った。
 シロよりもワカバの方が被害に遭ったような顔で、
「高校生にもなってこんなことするかぁ?」
 シロはチラリと振り返って、そこでやっと上級生の顔を確認した。少し、嫌な顔をする。
「なんだよ、シロ、知り合いだった?」
「バスケ部のセンパイ」
「なんで部活入ってないのに知ってんの」
「仮入部してた」
「いつ!?」
「ついこの間。ユメと家族には内緒」
 内緒、と言われてワカバは思わず辺りを見回した。校内だと、ユメがどこから現れてくるか気が抜けない。
「内緒って、正式に入部するんだろ? すぐバレるじゃん」
「入部しない」
「なんで?」
「仮入部してた三日間、一度もボールが回ってこなかったから」
「一度も!?」
「一度も」
 シロは思い出すとおもしろくなさそうにくちびるを尖らせた。気にはしていないが、おもしろくないものはおもしろくない。
 シロは、中学生のときチームメイトだった同級生の名前をあげて、
「アイツはパスくれるんだけど、センパイに邪魔ばっかりされて」
「そりゃ敵だからじゃないの?」
「味方だったけど」
「ああ?」
 なんじゃそりゃ、とワカバはもう一度廊下を振り返った。センパイたちは、気に入らないのなら見なければいいのに、いつまでもシロを見ている。
 シロは二度と振り返らない。ワカバはシロの目線を追った。シロは前を見ている。それはただ進行方向を見ているだけなのか、振り返ったりなんかするものか、という意志をもったものなのか。
「シロぉ」
「なに」
 呼ばれたので返事はするけれど、シロは前を見たままワカバも見ない。ワカバはなんとなく立ち止まる。シロは立ち止まらない。
 ワカバはシロを追いかけると、背中から勢いよく抱きついた。さすがにシロも振り向いた。抱き付かれているので首だけで、
「ワカバもユメも、べたべたべたべたべたべたしすぎっ」
 離れろっ、と後ろ手で押しやる。
「あ。おまえ、ユメはそこまで邪険にしないくせに、なんでオレだけっ」
「ワカバ、男だから」
「女ならいいのかよっ」
 シロはきょとんとして、
「ワカバだってだろ」
「決まってるじゃん」
「……じゃあ離れろ」
「ヤダ」
 と言うので、シロは通りすがりの友人に頼んでワカバを引き剥がしてもらった。
 シロは背後に気をつけながら、
「ワカバもユメも物好き」
「なんで?」
「なんでじゃない」
 バスケットボールをパスすることすら嫌がる人がのに。
「だってシロ、ほっぺとかすべすべしてて気持ちいーじゃん」
「それ、ほめてんの?」
「ほめてんの」
「変なの」
「なんで?」
 なんで? とワカバは多分、心の底から、
「シロだって、自分の肌が気持ち悪いとか言ったことないじゃん」
「それは」
「それは?」
 ……それは。
 シロはふと、小学校に入ったときのことを思い出した。
「おれ、自分がおかしいと思ったことなかったから。小学校まで」
「小学校? 物心付くまではってこと?」
「じゃなくて、保育園のときとか、ワカバもおれのことおかしいと思ってなかっただろ」
「だって、気が付いたときからその肌でそこにいたからなあ。シロはシロで、そういうもんなんだなあ、と」
「おれも、そんな感じ」
 そのときまで、直接シロに誰もなにも言ったことがなかったから、小学校に上がって、シロを知らない子供やその親と出会うまで、シロは自分がおかしいことに気が付かなかった。
 物心つかない頃には近所の嫌がらせもあったらしいけれど、シロに物心がつく頃には、近所もシロに慣れてしまっていて、回覧板は回るようになってきていた、といつだったか父が言っていた。
「家族にでも、お前はおかしいって言われてれば、ちょっとは自覚もしたんだろうけど」
「おねーさんとか?」
「そう」
「いや、言わないだろ、あの人は」
「……だよね」
 モモイロは拾ってきたシロを「ふわふわ、ねえ、ふわふわなの、触ってみて」と近所中連れて歩いていたらしい。
「シロ、ふわふわのかわいい赤ちゃんだったって近所で語り継がれてるじゃん。よかったなあ、かわいくて」
 かわいい、を連発されてシロは複雑な顔をする。女の子だったなら、もう少し素直に喜べたのかもしれない。
 だいたい、そんなにかわいかったのならどうして捨てられたのか。そんなことを思いながら、廊下の突き当たりの階段を下りるのになんとなく、手摺に触った。なんとなく、ワカバを見た。
 シロはワカバを見たまま、立ち止まる。少しだけ背の高いワカバを見上げた。
 ……一瞬。
 また。
 こんなのは一瞬のことに違いない、と。
 一瞬、目を疑った。
「シロ?」
 どうしたんだよ? と以前、同じ態度を取ったシロにユメが聞いたことをワカバも聞いた。凝視するシロを、ユメがしたように、ワカバも、シロの目の前で手のひらをひらひらと振った。
 以前は、それだけだったのに。それで元に戻ったのに。
 ……戻らなくて、シロは一歩退いた。
 ワカバの肌の色は黄緑色のはずだった。
 シロは辺りを見回した。
 階段を上ってきた教師は数学の教師で、肌の色は赤レンガに似た色のはずだった。廊下を走って行く生徒は中学のときのクラスメイトだった。肌の色はねずみ色のはずだった。
 みんな、まるで看板にムラなく塗ったペンキのようにきれいな肌をしていたはずだったのに。
 ひらひらと、目の前でワカバが振っている手は黄緑色じゃなかった。
 数学教師の肌は赤レンガ色じゃなかったし、元クラスメイトの肌はねずみ色じゃなかった。
 シロと同じような肌の色をしていた。触れば多分、シロと同じような感触をしているに違いない。
「おーい、シロ?」
 シロはそんな肌色のワカバからさらに身を退いて、踏み外した階段から落ちた。


 多分、おかしな夢を見たのに違いない。
 夢の中で、ユメの肌色は、六枚切りの食パンの白いふわふわしたところのようだった。ワカバの肌色は、食パンのミミがもう少し焦げたくらいの色だった。白、というには白すぎず、茶、といういうには茶色すぎず、どこか曖昧な感じのする色だった。シロと同じような肌色だった。
 そんなの、夢に違いない。
 ごそ、と動くと、手元に布の感触がした。シーツだ。シロはベッドに寝ている。
 ほら、夢だった。
 シロは安心して目を覚ます。真っ先に目に入って来たのは、シーツの白色だった。
 ……え? とシロは心の中で呟いた。シロのベッドのシーツは白色じゃなくて紺と緑と黄色の縞模様のはずだった。天井も見慣れたものではなくて、ここはどこだ、と驚いて勢いよく飛び起きた。
「シロ?」
 と心配そうに呼ばれて見向いた。
「どこか痛いところない?」
 モモイロの声だった。
「シロがドジするなんて、珍しいねぇ」
 仕草も、モモイロのものだった。
 確かにモモイロなのに、
「……ねーさん?」
 どうしても、確認せずにはいられなかったのは。
「なに? あのね、お母さんはおばあちゃんのところに出かけてたから、とりあえずわたしとミズイロとで来ちゃったけど、シロ、立てる? タクシー呼んでもらうから、一応病院行こうね? 階段から落ちたんだから」
 モモイロがミズイロを抱いていた。
「シーちゃん、どっかいたいー?」
 ミズイロが手を伸ばしてくるので抱き寄せた。ミズイロがシロの顔に触る。小さな手は、期待した、ぺた、という気持ちのいい感触ではなくて、するり、としていた。
 シロは部屋の中を見た。学校の保健室だった。モモイロの後ろにはユメとワカバと担任がいた。
 ……多分、モモイロとミズイロとユメとワカバと担任、のはずだった。
 絶対にそうだと言い切れないのは、肌の色が、みんな食パンだったから。
 いつもの鮮やかな肌色ではなくて、シロと同じ肌を、していた。
 ……ここは、まだ夢の中なんだろうか?
 ぼうっとするシロの額を、モモイロが熱を確かめるように触った。
 そんなことをされたら……そんなことをされる前にいつもなら飛び退くはずなのに、シロはモモイロの手のひらの体温を静かに感じていた。

 多分、ここはまだおかしな夢の中に違いない。



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