会社というのは静かなところだと思ってた。……今までは確かに静かなところ、だったんだけど……。
パソコンのキーボードの横に置いた携帯のメールの受信を確認して、折りたたみ、ぱたんと閉じた。制服のスカートのポケットに突っ込む。
……メール、なし。
ロッカー代わりの机の引き出しの鍵開けて、かばんの中から財布だけ出す。
……ロッカー、欲しい。会社は住宅会社でモデルルームメインで、事務所は小さくて、そんな場所ない。ロッカーが必要な事務員はわたし込みで2人だけだし。申請は出してるけど、いつになったら通るやら。って、ないのももう慣れたけど。
さて。
「お昼、買いに行ってきますー。立野さんも、なにか買ってきましょうか?」
時間はお昼ちょうどで、
「あ、デザート、欲しい、です」
立野さんは三つ年上なんだけど、入社したのはわたしが一年先で、いつもは使わないのにたまにこんなふうに控えめに、です、っていうのがかわいい。
「デザート、新作見てきます?」
「うん、あったら新作で。なかったらおまかせ」
「はい、任されました」
「みっつね」
「みっつもですか?」
「なっちゃん分も、おごり。あ、一つ200円まででね」
「りょーかい。やった、らっきー」
徒歩5分のコンビニに、いってきまーす、って出かける。
途中、最近すっかり見慣れた車とすれ違う。
植田さんだ。
この間、新築物件の引渡しが済んだお客さんの弟さんで、立野さんの彼氏さん。
そういえば、今日は土曜日だった。
だからデザートは、わたしの分も入れてみっつ。
みっつを指折り数えて……。
「そっか、土曜日、なんだ」
住宅会社の休日は水曜日で。土日祝日なんていう感覚はとっくの昔に薄れてたんだけど。
「……土曜日かあ」
最近の土曜日はちょっと特別で、忘れてるとびっくりする。
今日は思い出したから、びっくりするよりさせちゃおう、と思って、デザートは結局五つ、買い込んだ。といっても、別に会社の上司の分とかじゃない。だって、どうせ男の人たちは外食に行っちゃうし。
「ただいまでーす」
5分で買い物を済ませたから、事務所に帰るときっちり12時15分。事務所二階の打合せ室に入ると、いつもなら「おかえり」って言ってくれるの、お弁当持参の立野さんだけなんだけど。
「おう、お帰り」
土曜日のお昼は、立野さんの横で植田さん、当たり前の顔してわたしをお出迎えしてくれる。
打合せ室には、わたしと、立野さんと植田さん。
「……あれ、みっつだ」
今日は三人だ、と思ったら、背中から元気に、
「ちわーっす。メシだー」
ものすごく、ここに来るの当たり前の顔して望月君が入ってきて、その後ろから、おじゃましますー、って控えめに清水さんが着いてきた。
高校の制服姿の2人は、いつも部活帰り。いつも元気。
「立野サン、今日もきれいだしー目の保養ー。あ、奈津サン、コンビニ冷やし中華だ、オレもオレも一緒、一緒。師匠は……ああ、いつもの立野サン弁当、いいなあ。清水も作ってよ」
「なんで?」
「なんで、だって、冷たい……。いまだにハンコ、押してくれないし」
「ハンコ?」
なんだそれ、って植田さんが首を傾げる。わたしも傾げる。望月君がじゃじゃーんって取り出したのは……。
「なに言ってるんスか、師匠!! ハンコっていったらコンイン届けでショウ!?」
婚姻届、だった……本物の。
清水さんが本気で望月君を蹴飛ばした。
「やだもー、またもらってきてんの!? 押すわけないんだからもらってこないの、紙の無駄遣いしないの! って、ああ! 市役所のお姉さんが美人だからつい行っちゃう、とか言うんでしょ!?」
「言ってない言ってない。てか、ええ!? 押してくれないの!?」
「……押しません」
呆れ果ててる清水さんに、望月君は植田さんに泣きついた。
「うわーん、師匠ー。こうなったら、清水がオレに惚れ直すようなエロテクを師匠に伝授してもらうしか……っ」
「食事前に下品な話すんな!」
もう一度清水さんが望月君を蹴飛ばした。
……えーと。
……賑やか。
こんな調子で、最近の会社はなんだか騒がしい。でも、うん、嫌いじゃない。
だから、デザートは五つで、正解。
みんな元気だなあ、って思いながら、また無意識に携帯のチェックしてた。
メール、ない。
なくて溜め息ついたのも無意識だった。だから立野さんに頭なでられて、びっくりした。
どうしてなでられてるのかわからなかったけど、なんだかタイミングよくて。立野さんの細いからだにぎゅっと抱きついた。
「立野さん好きー」
「わたしも、デザートちゃんと人数分買って来てくれた気の利くなっちゃん好き」
「ほんとですかー? じゃあわたし男の人に生まれればよかったなあ。あ、立野さんが男でもおっけーです」
こらこら、って、余裕の笑みの植田さんが、だけど実はけっこう余裕ない目で、
「男が余るから、そういう発言をしないよーに」
って、わたしと立野さんの仲を裂いた。それから、やっぱり当たり前みたいに、デザート五つ分の代金を払ってくれた。大人だなあって、思った。
「奈津サン、奈津サン」
望月君はお昼ご飯より先に、わたしの買ってきた杏仁豆腐をさっそく食べながら、地方情報誌を開いた。
「オレたちこの後、映画行くんスけど、奈津サンはどっちがオススメ? オレはコレ見たくて、清水はコレって言うんだけど」
「こっちですよねえ??」
って清水さんが指したのは美女のアクションシーン満載の、昔のアメリカのドラマを映画化にしたものだった。
「望月君、アニメ見たいとか言うんですよぅ」
「あ、でもアニメでもディズニーだよ? わたし見た。おもしろかったよ。原作はほら、有名な小説だし。あ、でも清水さんの見たい映画の方も、おもしろかった」
「うわ、奈津サン、さすが、両方ともチェック済み。ということで、オススメはどっちか決断して」
「決断て……別にどっちもお勧めなんだけど……じゃあ、じゃんけんで。わたし割引券あるよ。あげるから、どっちが勝っても恨みっこなしってことで」
望月君と清水さんはさっそくじゃんけんを始める。あっさりと勝ったのは望月君だった。そんなことで小躍りするくらい喜んでる。
子供だなあ、って思った。
でも、楽しそう。
楽しそうでいいなあ。そんなことを思いながら、また、携帯、見てた。
メールが来たのは、きっちり5時だった。
終業の時間で、送り主は潤一で。
そうだよね、そういうけっこうきっちりした人だよね、って思いながら、着替えてタイムカード押して、
「お先に失礼しまーす」
会社を出て、メールの内容を確認する。
『奈津の今度の休みの予定は?』
信号待ちの間に返事をする。
『そういう潤一の予定は?』
信号が青になって歩き出す。
……ちょっと、泣きそうだった。
意地悪な返事をした。わかってる。
でも。
今度の休みなんて、空いてる。空いてるに決まってる。
潤一と会う予定が入ってるに、決まってる。
多分、潤一の予定も決まってる。わたしと会う予定が入ってるに、決まってる。
潤一からの返事はすぐにあった。
『映画でも行こうか?』
潤一からの返事に、道の真ん中で立ち止まった。
どうして、こんなに泣きたい気分になるんだろう。
泣きたいのは、返事が嬉しかったからじゃない。もっと、胸の中がもやもやする。すっきりしない。
潤一はいつもこう。
人の予定を聞いておいて、でも、そんなのはどうでもよくて、もう、映画に行くって、決まっている。
『奈津は、なにが見たい?』
7月に入ったところで、梅雨真っ盛りで、曇り空。
手放せない傘を握り締めた。
メール……ずっと待ってて、待ち遠しくて。なのに、来ると気分が悪くなる。
返事を考えるのが、イヤになる。
なんで?
理由なら、わかってる。
こういう、成り立っているみたいで成り立っていないやり取りに……いらいらする。
と、眺めていた携帯を、横から伸びてきた手に取られた。
「映画行くの? なに見るの?」
びっくりして振り返る。
自転車にまたがったままの高橋君が、もう興味のなくなった携帯を返してくれながら覗き込んできた。
望月君や清水さんと同じ高校の制服。自転車のカゴにはテニスラケット。
「……高橋君……」
高橋君だったから、高橋君だ、と呟くと、高橋君は嬉しそうに笑った。わたしに、名前を呼ばれて。
「なに?」
あー、えーと。なに? って。
「……それはわたしのセリフ」
高橋君は自転車から降りるとわたしに並んだ。
並ぶと、身長、同じくらい。
同じくらいだなあ、って思っていたら、それに気が付いたみたいに拗ねた顔をしながら、わたしのわき腹をげんこつでぐりぐり押してきた。
「おれ、まだ高一なんだよ。15歳なんだよ。今から伸びるんだからね。覚えてろ」
「覚えてろって……覚えてないのは高橋君のほうだと思うよ?」
「どうして?」
「そのうちにわたしのことなんて忘れちゃうよ、高橋君が」
「すーぐ、そうやって言う」
歩道の真ん中で、通り過ぎていく人たちをよけながら、
「忘れられるんなら、最初にフラれたときに諦めてとっくに忘れてる。おれ、奈津があの会社入ったときから見てるって、何回も言ってるよね?」
「はいはい」
高卒で入社して、わたしはまだ18歳だった。高橋君は近所の中学生で、まだ、13歳、だった。
年の差は縮まらない。
「おれの歳、そんなに気に入らない?」
「だってわたし、もうすぐ21歳だもん」
「おれは、いいよ、別に、そんなこと」
「彼氏もいますぅ」
歩き出すわたしを、高橋君が追いかけてくる。駅まで徒歩10分。
「おれ、その彼氏よりずっと前から奈津のこと好きなんだけど」
「わたしが高橋君のことを知ったのは、彼氏の後だもん」
高橋君を知ったのは、4月、だった。潤一とはその、もう少し前に知り合って付き合い始めた。
「中学生が告白したって相手にしなかったくせに」
中学生でも高校生でも一緒だよ、と言おうとして目が合った。それだけで、高橋君はわたしの言いたいことを察したみたいに睨んでくる。高橋君はなにか言おうとして、でも、言わない。自転車を引っ張っりながら、
「映画、なに見るの?」
聞かれて、わたしはまた傘を握り締めた。
「彼氏と、奈津はなに見るの?」
「知らない」
考える間もなくそう返していた。
……知らない。
わたしは、潤一がなにを見たいのか、知らない。わからない。
いつも聞かれるだけ。
でも、その映画、潤一が見たい映画だった?
本当は映画、見たくないんじゃないの?
わたしに合わせてるだけでしょ? わたしと会う口実にしてる、だけ、でしょ?
休みはいつも空けてあるよ。
潤一の見たい映画を見たいよ。
映画じゃなくても、潤一の行きたい場所はないの? そこにわたしを連れて行ってくれないの?
『奈津のしたいことをさせてあげたいんだよ』
うん、ありがとう。
でも、わたしも、潤一のしたいことを、させてあげたいよ。
『奈津が一緒なら、それでいいよ』
わたしもだよ。
わたしも、そう、だけど……。
「おれ、あの映画が見たい。なんてったっけ? 海賊の、衣装とかゴージャスなやつ。コマーシャルしてた」
ずっと隣で歩いていた高橋君に、
「あ、わたしもそれ見たい」
また目が合った。今度はその目が笑った。
「じゃあ行こうよ」
「え」
「奈津、今から暇でしょ。用事あるときはもっとしゃきしゃき歩くもんね」
そうだけど、でも、あの。
「見たい映画一緒で、だから一緒に行くだけ。奈津にはそれだけ。おれにはデートだけど」
「え、あの」
高橋君はわたしの荷物を取り上げた。それを自転車のカゴに突っ込んで、腕を引かれる。
引かれて、ちょっと感動した。
自転車とか、自転車の荷台とか、うわ、久しぶりに乗った。
「だけど、ねえ……っ」
「スカート、巻き込まれないように気を付けてて」
高橋君はけっこうなスピードで走り出していて、わたしは慌ててスカートを気にした。
映画なんて、見ているときはひとりでいるのと変わらない。
だから、集中できていい。
でも、終わった後、一緒にその映画の話をしてくれる人がいないとつまらない。
夏の一番日の長い時期だといっても、映画を見終わって出てくるともう空は真っ暗だった。雨は降ってない。でも、梅雨の雨雲に覆われていて星は見えない。
そういえば、もうすぐ七夕だった。天の川、見られるかな。
真っ暗な空を見上げたら、自転車を引く高橋君も同じことをした。
「奈津」
「んー?」
「奈津」
最初は生返事だったけれど、何度も呼ばれて高橋君を見る。
「なに?」
「楽しそうな顔してる」
「うん、映画、おもしろかった」
「だね」
高橋君も、映画を思い出して楽しそうな顔をする。
そういうの、少し、幸せだった。
同じものが見たくて、同じものを見て。
何かを感じること。
おもしろかった。つまらなかった。楽しかった。最悪だった。
なんでもいい。
だって、感じ方なんて人それぞれだから。そんなところまで一緒じゃなくてもいい。
一緒にしてくれなくていい。合わせてくれなくていい。
……合わせてくれなくていい。
同じものを、見たくないなら見たくないって言って。
そんなところも見せて。
「そういえば奈津、彼氏にメール返した?」
うん、とわたしは首を振る。
映画が始まる前に返事をした。
『別に映画じゃなくてもいいよ?』
返事は、すぐに返って来た。
『そうだな、たまには映画じゃないところも行きたいな』
返って来たのは、そんな返事。
……そんな、返事、だった。
それって、どういう意味?
潤一は映画なんて行きたくなかったのに映画に誘ったの?
そんなふうにばかり、考える。
「奈津」
「なに」
「なんでそこでつまらない顔するの?」
「なんでだろうねえ」
「なんで?」
真っ暗な空の下で高橋君は立ち止まる。
映画館から離れてしまうと街頭もまばらで、暗い。
真っ暗。
「声が、聞きたい」
わたしが呟くと、高橋君は戸惑ったように小首を傾げた。でも、誰の声? とは聞かない。
「メールばっかしてないで、じゃあ、電話すればいいのに」
まだ自転車のカゴに突っ込まれていたわたしのカバンから、携帯だけを渡してくれる。
わたしは紺色の携帯電話を手の平で包んだ。
「……でも、電話はいや」
「呼べば? 会えば?」
「それも、いや」
「なにそれ」
「だって、本当は好きじゃない、のかも」
「奈津?」
「……でも、好き」
「奈津」
「……よく、わかんない」
メールと電話と、会って喋るのと、そのたびに潤一の印象が違う。そんな気がしていた。
メールは噛み合わない。
電話は、話してるうちにだんだん楽しくなる。
会うと、会話なんか要らない。傍にいて、触れ合っていればいい。わたしだって潤一が欲しい。でも、それだけのような気がしていた。
好き?
うん。
でも。
今、
潤一がわたしのものでなくなっても、別に、かまわない。
人のものになってもかまわない。と、思う。
じゃあ、これは恋じゃない。
だって、会社で色々話を聞いてくれる立野さんがいなくなることのほうが、ずっと悲しい。
ほら、こんなの恋じゃない。
知ってた。
気がつかない振りをしてた。
でももう、気が付いた。
本当は潤一も、とっくに気が付いていたのかもしれない。
だからメールが噛み合わない。
だから電話が少なくなった。
だから……。
高橋君を見たら、高橋君が一番、わけがわからないよ、という顔をしていた。
わたしはわたしに呆れたように笑った。
携帯を高橋君に押し付けた。
「……奈津」
泣きそうな顔を、高橋君の肩口に押し付けた。押し付けて、はっとする。
「うわ、ごめん。化粧……ファンデーション、制服に付いちゃったかも」
確かめようと伸ばした手を、高橋君はよけた。
よけたきり、ふいと目をそらして歩き出す。わたしが押し付けた携帯電話を、またカバンの中に突っ込んだ。
「高橋君?」
高橋君は自転車を引くので精一杯なんだ、というふうに、
「奈津が彼氏を好きでもそうじゃなくても、よくわからなくてもさ」
身長が同じでも、早足で歩かれると追いつけなかった。
2人の距離がどんどん広がって、わたしは走って高橋君を掴まえた。半袖の制服の袖口を確かに掴まえたのに、高橋君は振り払う。
「触るなよ」
「高橋君?」
「おれ、我慢してるのに、奈津が触るな」
真っ暗で顔が見えない。
声だけだった。
声がそのまま高橋君の感情になった。
「奈津が彼氏を好きでも好きじゃなくても、奈津に触る権利があるのはそいつだけなんだ。付き合ってるって、そういうことじゃないの? でも、なんだよ。好きならともかく、好きじゃないとかよくわからないとかって、なんだよ。おれ、そんなもんのために、なんで我慢してんの!?」
高橋君はやっと立ち止まって振り返った。
振り返った分、感情が近くなる。
すぐ、傍になる。
「おれ、そういう意味で奈津に触ったことない。ないよね?」
声を噛み締める。
感情を、噛み締める。
「慰めて欲しいなら、彼氏に言ってよ」
言われて、わたしは顔が熱くなった。
うそ、そんなふうに高橋君に触った?
それって、ねえ、どういう意味?
わたしが、高橋君を……。
高橋君は自分の肩口を払った。
わたしが、顔を、押し付けた肩口だった。
「ねえ、奈津、誰でもいいんなら、おれにしてよ。おれと、付き合ってよ。おれに奈津を触ってもいい権利をちょうだい」
わたしは、顔が熱いまま、高橋君が払った高橋君の肩口を、見ていた。
◇
『映画じゃなくてどこか行きたいところある? やっぱり映画でもいいよ』
潤一からのメール。
『奈津、映画の前に七夕があるよ。会う?』
今日は土曜日。
映画を見に行くのは、わたしの会社がお休みの日。水曜日。
七夕は月曜日。
わたしは潤一にメールを返す。
『潤一、明日、会おうよ』
休日だから逢うんじゃなくて。
七夕だから逢うんじゃなくて。
逢いたい日に、逢おうよ。
◇
制服を着替えて、タイムカードを押して、お先に失礼します、と会社を出た。
見上げた空は相変わらずの曇り空だった。
信号を渡ったところの電柱にもたれて、カバンを肩にかけ直す。そうしていていると通り過ぎていった自転車を呼び止めた。カゴにはテニスラケットが入っている。
「たか……」
ためらって、でも、呼んだ。
「高橋君」
自転車の急ブレーキの音が響いた。
高橋君は土曜の夜の自分を思い出して、わざと表情を消した。
「なに?」
わざと、そっけなく言う。
自転車にまたがったまま、用があるなら早く言ってよ、という態度を取る。両手は自転車のハンドルをしっかり握り締めたまま。
「なに?」
「……昨日、彼と別れた、から」
「……は?」
は? という顔をされて、わたしも、はっとした。
もう本当に、今、気が付いた、んだけれど。
「って、あれ? どうしてわたし高橋君に報告してるの?」
「……さあ?」
「……だよねえ。じゃあ、まあ、そういうことで……」
高橋君以上にわたしが、どういう顔をしたらいいのかわからなくて、駅に向かって歩き出す。
五歩、歩いたところで、後ろでガチャンと音がした。
振り返ると自転車が倒れてた。高橋君はわたしのすぐ傍にいて、わたしの腕を掴んでた。
「おれに、権利、発生するってことだよね?」
腕を痛いくらいに掴まれたまま、
「おれと付き合ってくれるの?」
真剣に言われた。けど。
「……そ、それはそれ、これはこれ」
「なにそれ」
「だって」
「年の差がどうとかって、まだ言うの?」
「……だって」
「だってじゃなくて」
身長が同じくらいだから、同じ高さに目がある。同じ高さに、声がある。
真正面から、同じ高さで見つめられる。
「じゃ、じゃあ……とりあえず」
「とりあえず?」
「覚えて、るから」
高橋君が、覚えてろ、と言ったことを覚えてるから。忘れないから。
「とりあえず、それくらいの歩み寄りからってことで……」
いい?
と聞くと、高橋君は、負けた、って顔をした。
でも、わたしの腕を離さない。
ずっとずっと離さない。
今日は七夕。
でも、ふたりでここにいるのは、七夕、だからじゃない。
ふたりでいる今日が七夕だっただけのこと。
わたしたちはいつだって、逢いたいときに、逢いたい人に、逢える。
おわり