2月14日から  〜St.Valentine2  担当:立野さん 〜





 なんでもないところで車のブレーキ、踏んだ、から。
 どうしたの? って見向いたら。
 もうずっと、ずっとそうしてたみたいに植田くん、わたしを見てた。
「植田くん?」
 呼んだら、なにか言いかけたくちびる、少しだけ開いて、でも、なにも言わない。
 もうすぐわたしの家、に着く住宅街に入る手前で。サイドブレーキは引かずにブレーキ、踏んだまま。真っ暗な道の、車の後ろのほうだけがブレーキランプで赤く照らされてる。
 植田くんの手が、わたしの耳、触った。
 親指が耳たぶをなぞって。それで。
 サイドブレーキを引いてシートベルトをはずした。
「……かわいそうだな、とは思ってるから」
 だれが? って聞くより、先に、
「立野が」
 どうして? って、聞くより、先に、
「俺が、好きなだけなのにね」
 視線、だけで植田くんを見たら、植田くん、
「俺が、立野を」
 そう、付け足した。わたし、小首、傾げて、
「わたしだって」
 わたし、だって、植田くんを。
「好……」
「言わなくていい」
 耳たぶをなぞった親指が、わたしのくちびる、押さえた。
 な、に……?
 喋れないまま問いかけた表情に、
「立野、かわいそう」
 ほんとかわいそう、と繰り返したくちびる……わたしのくちびるに近付いて、触れた。
 キス……するだけだと、思った。
 それで、それ、だけで。じゃあまたね、って言うんだと思った。
「……っん」
 少しだけ離れたくちびる、それで終わりだと思ったのに。終わりなんかないみたいにこじ開けられて、入り込まれて。
 あんまり急、だった、からっ。
「んっ!」
 イヤ、だったわけじゃないけど、驚いて、とっさに、植田くんのこと、押しのけようとした手のひら、掴まれて、包み込まれて、植田くんの手の、中で。押さえ込まれて絡めて取られて、引かれた。
 植田くん、笑った。
「ダメならダメって言えばいいけど」
 笑ってる、のに。笑ってない顔、する。
「なにが……?」
 なにをしたい、のかわからなくて。でもすぐに、
 ここで、
 手を、取られたまま、で。
 植田くんのくちびるが。わたしの、
 くちびるに触れて、くちびるの端に触れて、頬に触れて、あご先、から首筋に移動していく、から。
「……ぃ、やぁっ」
 こんな、ところで。
 この先を続けること、なんて。
 ダメ、ってわたしが言おうとしたの、
「今、じゃない」
「……え?」
「今は、どんなに言っても聞かない」
 抑揚のない声が、前触れもなく、シートを倒した。
「……聞けない」
 わたし、植田くんを、凝視、した。
「う、そ……」
「嘘じゃない」
 だって、車の、中、なのに。
「俺も、誰か通りがかりそうなトコわざわざ選んだりしてないけど」
 でも、それでも、
「もしかしたら、誰か、通るかも、ね」
 こんな、場所で。
「立野、こんな場所で燃えるタイプじゃないけど」
 わたしが、泣きそうな顔したのが楽しい、みたいだった。楽しんでるみたい、だったから、
「冗談、だよ、ね?」
「なんで?」
「だ、ってっ」
「俺としたくない?」
「そ……じゃなくて」
 わたし、窓を見た。植田くん、
「逃がさないし」
 鍵、のかかってないドア、開けようとした手を簡単に取り押さえられた。
「俺と、こんな場所でしたくないって言ってみなよ」
 一応、がちゃん、って、鍵をかける。その場所を閉ざす音と一緒に、
「言わないの? 言って」
 言っていいよ、って被さってくる、植田くんに、
「し……たくない」
「俺と、したくない?」
「違……っ。なに? どう、したの? 植田くんの部屋、行こう?」
「部屋にもホテルにも行かない。だから、こんなことしてる俺が、イヤって、言ってみる?」
 狭い、場所で。すぐ傍で。植田くんを目の前にして、植田くん、に。
「……い、や」
 植田くん、素直だなあ、って笑った。少しだけ、本気で笑ってるんじゃない、みたいに、笑った。おもしろそうに、わたし、見てた。
「でも、逃がさない」
「植田く……」
「いやがるヒトを無理矢理すんのは、レイプ、だっけ?」
 また、手を引かれて、シートに押し倒された。
 後部座席に、チョコレートの入った紙袋が、当たり前みたいに置いてあるのが見えた。



 今さら、バレンタインのチョコレートを渡すのにどきどきした。
 去年はまだ、本当にこのひとにあげていいの? って半信半疑で渡したチョコレートを、今年初めて、渡したいひとに渡した。もらって欲しいひとが、もらってくれた。
 それで、だから、わたし、笑ったら、
『なんだよ? なに嬉しそーに笑ってんの?』
『誰かと……過ごしたいひとと、過ごそうね、ってこの日に一緒にいるのは初めてだな、って思って』
『まじで?』
『うん、まじで』
『彼氏いただろ?』
『でも、なんだかちょうど、バレンタインはいつもひとり、だったから』
『……ほんっと、長く続いたことないんだな』
『ねえ』
 そうだねえ、って。そんなこと笑って話せる、くらい、
 すごく、幸せだった。
 幸せだよって、口にはしなかったけど。笑うわたしを見る植田くんには、ちゃんと伝わってるみたいだった。
 それから食事をして、いつもみたいに家まで送ってもらって、いつも、みたいに、またね、って言うはずだった。
 なのに。
 車の中で、いつもみたいに、会社であったこととか、たわいのないこと喋ってた声、途切れた途端。止まった車、が。止めた植田くん、が。
「……レ」
 レイプって、言った?
「ど、して……」
 狭い場所で覆いかぶされて動けなくなる。こんな、ところで。
「したいから」
「うそ……」
「ホント」
 キス……に応じないで顔、そらしたら声に出して笑われた。
「強情」
「ど、っちが……っ。こんなところで、や、だ。もっとちゃんとしたところで……」
「俺はどこでもいいけどね」
「よ……くないっ」
 もっと、文句、言おうと思って見た植田くんが。植田くんの、ほうがもっと、なにか言いたそうな顔、してた。
 わたしのこと見て、目が、合うより先に伏せた視線、わたしの首すじに落ちた。植田くん、自分の視線を追って、そこに噛み付く。首すじ……っ。
「……っ、ぁ!」
 本当に噛まれて、痛みにからだが跳ねた。その隙に、スカートの中に入れた手に、タイツと一緒に下着を引き摺り下ろされる。
 植田くんの、やろうとしてること、は、わかっても、理由がわからなくてあげた悲鳴、手のひらで押さえられた。
「ん…………っ」
 植田、くん? 
 植田くん、植田くんっ。
 ふさがれて出ない声、それでも聞こえてる、はずなのに。
 スカート、それ以上めくらないで、って抑えようとした手、狭い場所でひざで、押さえつけられて。ごそ、と脱がされた片方のブーツ、植田くん、後部座席に、放り投げた。
 タイツ、と下着、片足から抜かれて。
「ん、んっ……!」
 いや、やだ。
 首、振っても。植田くんの頬、はたいても。
「……やめない」
 はたいた頬、痛くもなんともない、みたいに。
「立野……」
 乱暴に、下着の引っかかる足、開いて。素足になった片足、持ち上げる。植田くんのからだ、わたし、割り込んでくる
 ほ……んと、に。
 ほんとうに、したいだけ、なんだと思った。
「立野」
 いや……だ。
 わたし、無駄、だと思いながら首だけ振った。
 泣きたかった、けど。涙は出てこなくて。
 なんで泣けないんだろう、って、
 どこかがすごく、冷静に、
「立野」
 植田くんの声、聞いてた。
 こんなひと、知らない。
「……立野」
 呼ばないで。
 呼ばないで、呼ばないで。その声で呼ばないで。
 ひどいことしてるのに。
 ひどいことしてるひどいひとが、呼ばないで。
 大好きだった思い出の中にあるままの声で呼ばないで。
 思い出、なのに。
 あんなの、だたの、思い出なのに。
 まだきれいなからだだった。だれにも触れてないからだで、心で、好きだった、頃の。
 思い出なのに。
 低くした声で。かすれた声で。植田くんが呼ぶ。
 思い出……じゃなくて。
 今の、植田くんが呼ぶ。
 なに? なあに? どうしたの? どうしてこんなことになってるの?
 わたし、が、なにかした?
「立野?」
 抵抗、するのやめたら。植田くん、少しだけ我に返ったみたいに力、緩めた。
 ひざに手を、かけたまま。
 わたしのくちをふさいでいた手、だけ、はずした。
 わたしに言葉、戻る。呼吸、戻って。大きく、あえぐみたいに呼吸して、奥歯、噛み締めた。
 植田くんの、言いたいことあるなら言えば、って目、から。
 顔ごとそらした。
 そらした、から。植田くんから漏れた息、吐息だったのか、笑ったのか、もっと他のなにかだったのか、知らない。
 植田くん、わたしの髪、くるくる指に絡める。いつもみたいに、ちゃんとベッドでしてるみたいに、そんなこと、しながら、
「泣かないんだ?」
「泣かない」
 ……泣けない、んだけど。
「俺、やめる気ないんだけど」
 わたし、横向いたまま。植田くん、見ないまま。
「好きに、すれば」
「ふーん」
 声だけ、なのに。植田くんのことなんて知らない、のに。
 視線、感じる。
 植田くんがわたし、見てる。
 わたし、さらに横、向いた。
 ……見ないで。ってわたしの気持ち、無視、して。
 絡めてた髪、急に引っ張った。引っ張られて、わたし、肩、揺らした。びくっと、したのが。
「怯えてる」
「……怯えて、ない、よ」
「嘘ばっか」
「うそ、じゃないっ」
 だって、どうして、
「ど、してわたしが、植田くんに怯えるの?」
 勢いで言った言葉、本心、だった。
 だってそうでしょ? 
 そう、でしょ?
 どうしてわたしが、植田くんに怯えるの? 知らないひとじゃないのに。知ってるひとなのに。好きな、ひとなのに。
 知らない、と思っても。いやでも、ひどくても、植田くん、なのに。
 植田くん、喉の奥で笑った。おもしろいこと聞いて、我慢できなくて、
「……すごいな」
 ほんとうにおかしくて、しかたない、みたいに。
「すごい、よなあ」
 言葉、繰り返す。
「立野さあ、忘れないほうがいいよ」
 横、向いたままのわたしに。
「俺はもう立野のテリトリーにいるみたいだから、だから、安心してるみたいだけど」
 髪、引っ張られる。痛い。力の加減、してくれない。引かれるまま、植田くんを、見た。正面、から。
 ……その、植田くんの表情を、わたし、知ってた。
 知ってた、から。
 また目を、そらした。
 だって、その表情……。
「俺も、立野を手に入れてそれで安心して忘れてたけど」
 表情に、油断、した。
「安心しきってる立野見て、思い出した」
「なに……」
 なにを? と聞こうとした言葉。飲み込まなくちゃいけなかったくらい。乱暴に。
 ずっと手をかけられてたひざ、開かれて、
「……やっ」
 とっさに、倒されたシートの上を背中で後ずさった。
 でも、それで。
 それが、植田くんには好都合だった。狭い場所で自由が利く、ようになって。ズボンのベルト、はずしながら、
「もしかしたら、やめるかも、とか思った?」
「……植田く……」
「やめない。ざあんねん」
 くちびるが、わたしに、キス、もしないまま。どこにも触れないまま。いつもは耳元で囁き続ける言葉も、ないまま。
「や、めて」
「やめない」
 でも、そんなことを言われてもっ……。
「わたし……っ」
 一度だけ、髪を撫でた指先で、植田くん、を受け入れる場所を撫でられた。柔らかいだけの場所を押し……広げて、
「濡らす気ないんだ?」
 乾いた場所に乾いた指を、差し込んでくる。
「…………っぅ」
「痛い?」
 痛く、はない。でもよくもない。やめて、と声にしても、
「好きにすればって、立野が、言ったくせに」
 そのまま、なんの愛撫もないまま。避妊も、してくれない、まま。
「い、やっ。植田くん、どうかしてる!」
 叫んだ声が震えた。
 ほんとに、する、の!?
 指先、震えて。植田くんの肩口、押し退ける力、入らない。
 震えてるのだけ、わかる。
 植田くん、冷めた目でわたしの震えてる指先、見ただけだった。
「ほんと、どーかしてるんだよ」
 植田くんの指先が、濡れてないその場所を無理に、広げる。
 いつもなら。必要のない仕草。
 ……いつも、なら。植田くん、そこが潤ってるの確かめるだけで、
『ああ……ここだ』
 ここだよね、って、耳元で、熱くした息で、
『立野が俺を欲しがってる場所、見てみる?』
『……や、だ。そんなこと言って……』
『言っちゃダメ?』
『ん……ダメ』
『恥ずかしい? その恥ずかしい場所に、俺、いれていい?』
 潤った場所をたどって探し当てて入ってくる植田くんに、しがみつく、だけなのに。
 いつも、なら……。
 でも今は、少しも準備できていないからだに、わたし、息を飲んで、かたく目を閉じた。そんなことしたら自分が辛いだけなの、わかってて。でも、からだの力、抜けなくて。
「全部、俺のものにしたいだけ」
 植田くんが聞かせたいように、聞かせなくないように、つぶやくように囁くようになにか言ったの、聞く余裕もなくて。
「あっ! ……っあ、ぁあ!」
 無理矢理押し込まれる感触に、喉の奥が引きつって声も、出なくなった。
 ただかたくかたく目を閉じて、指先が震えるのがどうしようもなくて握り締めて顔を覆った。
 ぎちぎちと入り込んでくる、その場所の、そういう感覚で頭がいっぱいになる。植田くんでいっぱい、なのは変わらないのに。ぜんぜん違う。
 だから、もう、
 やめて、と叫んだ気がする。やめない、と答えがあったような気がする。気のせい、だったのかもしれない。わからない。
 こんなふうに抱かれたことがないから、なにを考えたらいいのかわからない。
 いつもなにを考えて抱かれていたのか思い出せない。
 なにも……。
 いつもだって、なにも、考えてなかったかもしれない。息が熱いとか気持ちいいとか大好きとか、そんなこと、ぐるぐる、ぐるぐる、思ってるだけで。植田くんが、傍にいるんだなと、思ってるだけで。
 ……植田くんは、そばにいるのに。
「……ん……あ、…………っ」
 腰、に手をかけられて、残りのほんの少しを惜しむように、これ以上無理なくらい受け入れさせられる。その後もただ、ただ、乱暴に揺らされる。
 ひどい、とか痛い、とか辛い、とか。
 早く終わってくれればいいのに、とか。
 ……もう、
 もう、
 やめて、と伸ばした手がなにかに触った。それが、
 熱くて、
 目を、開けたら。
 植田くんがわたし、見てた。
 その、表情……に。
 息を飲んだ。
「植田く……」
「辛い?」
 静かに、どうでもいい、みたいに、
 そんな、当たり前のこと、聞かれても。
「でも、まだ終わらない」
 ……辛い、けど。
 だけど。
 そう、じゃなくて……。
 ねえ。ずっと。
 ずっと、そんな顔、してた、の? そう言いたげに見たら、そう言いたげにしたのわかった、みたいに、まなざしをそらされた。
 わたし、熱い場所に、触ったままで……。
 触ってたの、植田くんの吐息、だった。
 熱い……。
 吐息に触ったまま。
 ねえ、
 ねえ。
 わたしが、してほしいこと。
 わかる?
 そんな想い、……伝わった。
 植田くん、植田くんに触ってるわたしの手のひらに、くちびる押し付けた。
 わたしの手、掴んで、指先まで、舐めるみたいにキスした。その手を、そのまま、植田くんの背中に回された。両手で、植田くんを抱き締めた。
 腰から、抱き寄せられたら、
「っぁ……」
 わたし、から、植田くんをねだったみたいな、格好、になった。
 ひどい格好……なのに。恥ずかしいのに、いやなのに。
「…………んっ」
 わたし、の声……に。
 甘くせがまれたみたい、に。だから仕方がない、みたいに。植田くん、は、わたし、を、抱く。
「っ……あっ」
 素肌じゃないのがもどかしくて、シャツの背中を握り締めた。
 ねえ、
 ねえ。
 わたしも、植田くんと同じ表情、してた。気が付いた?
 植田くんを好きな顔、してた?
 植田くんが欲しい顔、してた?
 急に、大きく動かれて、
「っ……ふ、あ!」
 ぎこちなくて苦しいばっかりだったからだの奥が、悲鳴を上げた。
 植田くんにしがみつく。
 ちゃんと、わたしが、植田くんを受け入れる。植田くんが、欲しくて、溢れてくるそれを感じる。
 濡れはじめた、感触に、
「……バカだなあ」
 呆れた声を聞いた、けど。
 植田くんはせめるのをやめないし、やめる気もない。
「立野の、せいだから……」
 なにが? って聞く間も、考える間も、与えてくれないぐらい。
 受け入れさせられてる植田くんが、乱暴なままでも、乱暴、でも。
「……っ、あ、……んんっ!」
「ヨくさせてあげるつもりなんて、なかったのに」
 え、と問いかけたまなざしに、
「なんでもない」
 なんでもない、まま、からだの奥をせめたてられる。狭い場所では、その、向きや角度を変える余裕もない、のに、そんなふうにされてるみたいに。
「……っあ、……んっ!」
 そんなふうにしてるみたいに。
 途中、途中で、隠す気もないみたいに聞こえるようになった植田くんの息、あがってくのを聞いて。
 いつもよりずっと乱暴に揺らされてかき回される。止められなくなって、溢れてくるいやらしい水音が、ぶつかる音に、ぐらぐら、頭の中が揺れておかしくなりそうだった。
 だから、ねえ、
「う、えだく……んっ」
 おねがい、
「も、っと。やさしくして」
「できない」
「お……ねがい」
「……無理」
 からだの中から引かれて、押し込まれて。波の上にいるように揺らされ続けた。呼吸が整う間が、なくて。そんなの、あるわけなくて。
 しがみついてる力、ふと失いかけたとき、不意に、動きを止めた植田くんの、小さな、声が、謝った。
 心当たりが多すぎて、なにを、謝られたのかわからないでいるうちに大きく突き上げられた。
「あ……っ、も、う、植田く……ん……っ! や……ぁ!!」
 限界の場所まで押し上げ、られて。
 押し上げられた場所で、植田くんの最後を、受け止めた。
 植田くんを、抱きしめようと思ったのに。そうするより先にもっと強く、抱き締められた。



「なにが、したかったの?」
 車が動き出しても、植田くんは答えない。
 安全運転の振りして、わたし見ない。見ない、から。身なりを整える。面倒だったから、タイツ、脱いだ。
 玄関先に車が着いても、植田くんはなにも言わない、から。わたしもなにも言わないまま。降りて、運転席側にある玄関先で、カバンの中から鍵を探す。
「麻子」
 呼ばれて振り返ったら。植田くん、車から降りてた。コート、着ないまま、
「麻子」
「……な、に」
 思わず、コート着てなくて寒そうだよ、って顔したら、心の底から呆れた顔をした。心の底から呆れた声で、
「怒ってないの?」
「……怒ってるよ」
「でも、わたしもヨかった、し?」
 からかう、みたいに、言うから。
 家の鍵、握り締めた。
「もっと、怒らせたいの?」
「どう、かな」
「なにそれ」
「とにかく、怒ってるんだ?」
「……怒ってるよ」
「ふーん」
「最初からずっと。怒らせることばっかり、してるくせに。ひどいことしたくせに」
「きっと、これからもする」
「どうしてわざわざそんなこと言うの!?」
 植田くんがわからなくて、わたしにも余裕が、なくて。口もききたくなくて、家に、入ろうとしたら、
「麻子さん」
 植田くん、なにか、差し出してきた。小さなものを、下向き、に握ってるから。
「……なに?」
 なにか車に忘れ物、したんだと思って手を、出したら。
 わたしの手のひらに、落とされたもの……。
 指輪……。
 …………ゆび、わ?
 植田くんを、見上げたわたしに、
「結婚してください」
 そう、言うのが当たり前みたいな、顔をして。声をして。
 ……指輪。
 と、
 植田くん……が。
 今、なんて、言ったの?
 け……。
「…………………………………………え?」
 聞き返したわたしに、植田くん、「間、長っ」って呟いた。
 長いって、言われても……。
 それからわたし、さらに、間を、おいて。
「……わたし、怒ってるん、だよね?」
「そう、だな」
「植田くんが、怒らせた、よね?」
「そう」
「すごくひどいこと、した、よね?」
「しました」
「これからも、するかもって……」
「言いました」
「なのに、今プロポーズ……!?」
 植田くん、見て。指輪、見て。
「ここは、わたし、混乱、していいところ?」
 植田くんは、ただまなざしを細めて、全部、受け止めるみたいに、その覚悟があるみたいに笑った。
「ダメならダメって言えばいい」
「……ダメ、って、言わせたいの? だから……っ」
「まさか」
「だって!」
 ……だって。そんなの、
 わたし、ぜんぜん、
「……わけ、わかんない、んだけど」
 怒ってるままなのか呆れてるだけなのか、自分の感情がよく、わからなくて、ぽつん、と呟くと、
「手放す気は、ないんだ」
 植田くん、やっぱ寒いな、ってポケットに手、突っ込んだ。今まで、寒いのなんて感じてなかったのに、急に寒くなったみたいに。ちょっとだけ、なにかを怖がってるみたいに。
 なにを怖がって……。
「立野を手放す気は、ないんだ」
 植田くん、わたしの足元、見て。
「ずっと、立野の中に入りたかった」
 わたしの胸元まで視線、上げる
 わたしの……中……。
「入りたかったんだよ。心も、からだも」
 わたしの、目が、見られないみたいに、胸元、見たまま、
「学生のときはムリだった。できなかった。でも、今、できてる。今さら、失ったりなんか、できるわけないだろ」
 わたし、息、飲んだ。
「……だ、ったら」
 そんなふうに言うのなら、
「ひどいこと、しないで」
「そう、だよなあ」
 植田くんも、そんなこと、わかってる。でも。
「でも」
 わかっていても、でも、と否定の言葉を、口にする。
 わたし、は。
 ひどく、されたことを思い出して。
 ひどいことをした自覚がない、みたない植田くんから、
 一歩、退いた。
 植田くんは静かに、わたしを見る。
「でも……。立野を手放さないための手段に、見境をなくす」
 上げた視線は、穏やかそう、だった。
 穏やかに。穏やかな、声で。まるで他人のことを言ってるみたいに。
「ヤバいから、俺なんかやめたほうがいい」
「植田くん……」
「でも、さ」
 植田くん、寒いの我慢するみたいに肩だけで笑った。
「言わないで」
 ダメ……だと。いや、だと、言わないで。
 返事、を。
 ……返事、なんて。
 まだ考えたこともなかったことの答えを、今、求められて。
 それでも、決まってた、答え、を。
 これからも、ずっと、一緒にいられるための答えを。
 少し、だけ、ためらった。
 ……わたし、このひととずっと一緒にいる、の?
 少し前までは。たった一年、前、までは。あのとき……高校生のとき、手に入らなくて、だからもう二度と手に入るわけがなくて。
 失ったと思ってたひとを。
 わたし、だって。
 ほんとは、もっとずっと早く、植田くんの中に入りたかった。
 だけど、入れるなんて、思ってなかった。そんな、ひとと。
 今、一緒にいるだけで、それだけで、いっぱいいっぱいのひと、のこと。
「わたし……」
 手の中の指輪の感触、握り締めて確かめる。
 目の前にいるこのひとを。
 このひとが、好き、な、ひと。
 今、一緒にいるひと。
 好き、でいても、いいひと。
 この先も、一緒にいる、ひと。今までは、ほかの誰でもダメだったのに。
 このひと、だけが……。
「立野」
 ごちゃごちゃ、考えても。
 けっきょく決まっていた答え、を、言おうとしたら。
 植田くん、わたしの答えをうながすみたいに。でも、わたしの答えを、聞く気なんかない、みたいに。わたしの答えを、聞いても仕方がないみたいに。わたしの答えを、聞くのが怖い、みたいに。言った。
 また、うつむいて。わざと、いろいろなことをはぐらかす、みたいに。
「できてたら、決める?」
「……え?」
 一瞬、なんのことかわからなかった。
 そんな顔をしたわたしを、責める、みたいに。もう忘れたの? とからかって。
「俺のこども」
 わたしのお腹……下腹を撫でた。
 なんのこと、かと聞き返す前に、さっき、無理矢理された……こと。
 思い出して、また一歩、退いた。
「責任取るよ」
 一歩、近付いてくる植田くんに、振り上げたカバンをぶつけた。
「サイテー……」
 右肩に、カバンの角がぶつかったのに。植田くん、表情ひとつ変えない。
 ……ひどい。
 ひどいっ。
 植田くんが、ひどい。
 こんなふうに植田くんをぶってるわたしも、ひどい。
 痛がってないけど、痛いに、決まってる。
 でも、止まらなくて、
「いや! やだ! 植田くん、最低!」
 振り回したカバンが、右頬をはたいた。それがすごく、痛かったのか。
 痛かったのはわたしの、言葉、だったのか。
 頬を押さえた植田くんが、呟いた。
「うん……ごめん」
 自分がしたことの意味、全部、知ってる、みたいに。
 やっとその言葉が言えて、安心した、みたいに。
 でも、済んだことはもう、どうしようもなくて。ほかにどう謝ったらいいのか、わからない、みたいに。
 冷たい風が吹いて、わたし、身をすくめた。まるで植田くんを拒絶するみたいに、植田くんをぶったカバン、抱きしめた。
 植田くんのまなざしが、戸惑って揺れて。そのまなざしで、わたしのこと、見下ろす。
 どう……していいのかわからなくて。逃げる……つもりなんてないのに逃げたい、みたいに、家の玄関を見たわたしの。
 足元に。
 何気なく……。
 植田くんですら、無意識だったみたいに。
 本当に何気なく見た、わたしの足元、に。
 ひざまずいた。
「な、に……?」
 なにを、するのかと思った。
 だってまさか。
 そんなこと……。
 タイツを脱いだから素足にブーツをはいてた、ひざに、植田くんが触った。その手、が暖かい、と思った、のは。
 わたしの足が冷えてるのは、植田くんがタイツ、脱がせたから、で。そんなことも知ってる、みたいに。もう一度謝る、代わりに。
 植田くん、スカートを少しめくったひざの、外側のあたり、を。覗き込むように小首を傾げて、そのまま、そこにくちびるを押し付けた。
 う、そ……っ。
 わたしがびっくりするのもかまわないで、強く吸った。
「……植田くん……っ」
 暖かい手、が。
 太ももをなぞりあげた、からっ。
 びっくり、して。驚いて。
 逃げて、た。
 わたしが、逃げても。
 植田くんにはわたしが、植田くんの予想してた通りの動きをした、みたいだった。
 寒い、から。
 早く家に入ったほうがいいよ、って。
 言葉ではなにも言わない植田くんに、表情とか、まなざしとかで、そう言われた気がして。促されて。
 玄関の鍵、開けて、家に入った。
 表での騒ぎになんだかいろいろ聞きたそうな顔をした両親と目が合ったけれど、なにも聞かなかったからなにも答えずに二階の、自分の部屋に入った。
 ベランダに出ると、植田くんが見上げてた。
 わたしの手はまだ、指輪を握り締めてる。
「植田くん」
 呼ぶと、なに? と言いたげに首を傾げた。なに? と、声には出さない。
「わたし、当分怒ってるから、連絡、してこないで」
 どれくらい? と表情で問いかけられる。そんなの、
「……知らない」
 でも、
「でもっ」
 わたし、指輪をはめて。
 その手を自分で眺めて、それから植田くんに、見せた。
「この先、ずっと、一緒にいるうちの。……ほんの少しのこと、なんだから。その間くらい、反省してて」
 少し、の間。
 植田くんはわたしがなにを言ったのか、わからなかったみたいに、わたしを見上げてた。
 わたしの言葉、少し、して。
 届く。
 届いた顔をしたから、ベランダから身を乗り出したわたしに。植田くん、危ないぞ、って言いたげに片手、ひら、と振った。
 今日のこと全部、受け止めて。
 玄関から顔を出した両親に、深く頭を下げて車を出した。
 わたし、ベランダから植田くん、見送って。寒いなって、思いながらずっと、指輪、見てた。
 ……そう、したら。


     ◇


『あーさーこーさーん』
 中に入れてください、って丁寧に言われても無視、してた。
「……あの、立野さん? いいんですか、ほっといて」
 お昼時の会社の打合せ室、で。
 お弁当をコンビニに買いに出かけてたなっちゃんが、植田くんと一緒に帰ってきた、から。
 なっちゃんだけ打合せ室に入れてあげて、植田くんは。にっこり、わたしが笑ったら、にっこり、笑い返してきたからその隙にドア、閉めた。鍵なんてついてないドアだけど、だからって勝手に入ってくることはしない植田くん、ドアの向こうでなにかわめいてる、けど。
「なっちゃん使って入り込もうなんて、植田くん姑息っ」
 聞こえるように言ったから、当然植田くんには聞こえてて、
『ごめんなさい、すみません。俺も入れて』
「いや。だめ。知らない」
『お腹すいたんですけど』
「植田くんのお弁当なんてありません」
 わたしと、植田くんのドア一枚をはさんだやり取りになっちゃん、おろおろする。おろおろしながら、テーブルの上にぽつんと乗ってる紙袋、じっと見た。
「あの、これ、植田さんのお弁当じゃ……」
「ち……っ」
 わたし、慌てて、
「違う、からっ」
「え、でも、植田さんが来そうな日、いつもお弁当ふたつ持ってきましたよね?」
「持ってきてませんっ」
 強く、否定、したところで。インターホンが鳴った。元気よく、
『おじゃましていーですかー』
 清水さんと望月君が仲良く上がってくる。電話の内線が鳴って、なっちゃんが出た。多分、事務所の部長からの電話、に、
「はい、えええと、友達です。お昼の休憩の間だけ。いいですか?」
 受話器をおいたなっちゃんに、
「今の、部長?」
「うん、清水さんたちの姿が見えて、お客さんだと思っただけで、お客さんじゃないならいいみたい、です。部長たちもお昼に出るから、あとよろしくーって」
 なっちゃん、会社にかかってくる電話がこの打合せ室に集中するように操作する。
 ドアの向こうでは、望月君が、
『あれ、師匠。こんなところでなにやってんですか』
 植田くんに話しかけてる。でも返事がない。ドアを清水さんが開けたから隙間からのぞいたら、植田くん、ドアの脇でひざを抱えて小さくなってた。
 ものすごく、植田くんがかわいそうな顔で、なっちゃんがわたしを見る。清水さんは、なんですかあれは、とわたしを見る。望月君は、ケンカ中ですか? とわたしを見る。わたし、あえて、気にせず、
「ふたりとも、久しぶり、だね」
 わたしが気にしないから、清水さんもさらりと植田くん、気にするのをやめて、
「やあっと、受験が済みました」
 結果を聞くなっちゃんに、
「あー、本命国公立の発表はまだ、来週なんですけど、私立は一応、あたしも望月くんも受かってますーということで。ちょっとどきどき中なんだけど、だからって家にこもってても仕方ないし」
「とりあえず、お疲れ様、ってことでいいの?」
 なっちゃん、お茶を用意しながら聞く。清水さん、ぐったり、テーブルに突っ伏して、
「うあー、ほんと疲れましたー」
 ねえ望月くん、と振り返ると、望月君はドアの向こうで植田くんに捕まえられてた。
 清水さんが、わたしを見て、植田くんを見て、それからちょっと望月君はどうでもいいみたいに、なにごともなかったかのように、ドアを閉めた。
 ドアの向こうで叫び声が聞こえる。
『なんすか師匠っ。なんかオレも閉め出し食らってますけどっ』
『……仲間』
『いや、あの、手を、なでなでしないでクダサイ。オレ、あっちの方がいいんですけどっ』
『俺だってあっちのがいい』
『ですよね、美女の園ですからね』
『……いい響きだな』
『いい響きですね』
 じゃ、と望月君が言って、ドアのノブが回りかけた、とき。ごん、って音がした。多分、植田くんが望月君を無理矢理引っ張って、それで、引っ張られた望月君、どこかにぶつかったんだろうな、って、部屋の中のさんにんで顔を見合わせた。
「……で、これはなに遊びなんですか?」
 清水さん、なっちゃんからお茶を受け取って、それで思い出したみたいに、ポケットから四つ折にしたレポート用紙をなっちゃんに渡した。なっちゃんは、日に透かすようにレポート用紙を見て、
「これ、なあに?」
「高橋少年も連れてこようと思ったんですけど」
「え、高橋君はふつうに授業中、だよね? 清水さんたちは自由登校?」
「はい。なので、一筆もらってきました。なんて書いてあります?」
「えーと、たいしたことじゃない、けど。今度遊びに行こうねって言ってたのの、確認、みたいな」
「え、そんなことしか書いてないの? もっとこう、らぶらぶしてないんですか?」
「あ、でも、こういうのいつもメールだから、手書きっておもしろい、よね」
 清水さんを見て、それからわたしに向いて、
「ですよね」
 なっちゃんはかわいらしく、笑う。かわいらしく、笑ったまま、
「それで、植田さんとどーしたんです?」
「そうそう、植田クンとどーしたんです?」
 ふたりに、つめ寄られて。……あの。
 のけぞった、ところで、またドアの向こうで、
『ほんっと、おおまじで、オレに安らぎをください。おとついまで受験で、昨日やっと帰ってきて、今日はやっと、やっと! 安らぎを得にきたんで。……ということで、オレは失礼して美女の園に』
『俺で安らぎを得ればいいだろ』
『むりっす』
『……だよな』
 まあ、でも、と望月君をいたわる雰囲気で、
『おまえたちの合格発表すんだら、のんびり温泉にでも行くか』
『美女と一緒に?』
『美女たちと一緒に』
『ぶらり湯けむりぬくぬく混浴紀行とか書ける勢いっすね』
『書くのか?』
『いやもー、そんなん、どきどきして眠れないからペンでも握ってないと』
『眠れないかあ』
『だって混浴ですよ。混浴。決定! 部屋割はりどーします? 雑魚寝? 和室で雑魚寝!? 美女と雑魚寝。雑魚寝ばんざい』
 勢いよく、清水さんがドアを開けて、
「アホ会話禁止!」
 投げ付けたスリッパの片方、望月君に命中した。もう片方のスリッパは、植田くん、身軽に避けて、
『あ、清水さん、どこの温泉がいい?』
 清水さん、もっとスリッパ投げたそうにしながら、でも、スリッパなくて、すごく妥協、したみたいに、わりと近場の温泉郷を提案した。
 ドア、開いたままで。
 望月君、ぶつけられたスリッパを清水さんに返して、それで、自然に、清水さんの隣に座る。清水さんは、もう片方のスリッパ、自分で拾って、お弁当の入ったコンビニの袋、がさがさ望月君と覗き込む。
 なっちゃんは用意しておいた望月君と植田くんのお茶を、ふたりに、渡す。
 わたし、は、とりあえずお茶を、飲んだ。
 植田くん、は。
「麻子」
 呼……んでも、わたし、返事、しなくて。でもそんなの、かまわない、みたいに、
「久しぶり」
 って言ったの、わざと、で。
「え、久しぶりって、どれくらいぶり?」
 清水さんが余計なこと言わないの、とたしなめるけど、植田くんにしてみれば多分、計算どおりの望月君のつっこみ、に。
「バレンタインぶり」
 だよね? ってわたしに確認、する。
「……って、丸二週間もケンカしてたんすか? しかも、バレンタインから」
 それでよく破局してませんね、ってだから余計なこと言うなって清水さんに言われつつも呆れる望月君に、
「喧嘩じゃない」
 植田くん、言い切る。
「じゃーなんですか」
「俺が麻子を怒らせただけ」
「そう、植田くんが怒らせてるんですー」
 それを俗にケンカというんじゃないですか、って望月君と清水さん、顔を見合わせる。植田くんは平然として、
「まだ怒ってる?」
 って言うからっ。
「うわ、植田くん最低っ」
「はいはい」
 平然と……。
「ほんと、最悪っ!」
「はいはい」
 これじゃまるで、わたしが、聞き分けのないこども、みたい。でも、がまんできなくて、つーんと横を向いたら。
 見かねた望月君、植田くんのジャケット、引っ張った。
「だから師匠、なにやったんですか」
 植田くんは、こともなげに。
「なにって、プロポーズ」
 ぎょっとしたのは清水さんで、テーブルから身を乗り出した。
「え、って、まさか立野サンっ。うっかり、ぺろっと受けちゃったんですか!?」
「こらこら、清水。うっかりってなんだ、うっかりって」
「嫌あああー、立野サン、それ、一生の不覚。撤回、撤回。まだ間に合います。撤回しましょう」
 こぶしを握って、お弁当もそっちのけの清水さんに、
「おまえが師匠とケッコンするわけじゃなし。熱くなるな。どうどう。つか、あれ、立野さん、おっけーしたんですか?」
「バレンタインに! プロポーズして! 断られてたらさすがの植田クンもこんなにひょーひょーとこんなとこ顔出さないでしょ、さすがのさすがにっ」
「……いや、師匠の場合、そーとも限らないよーな……」
「立野さんだって、プロポーズ蹴った相手に、わざわざっ、お弁当作ったりしないしっ。てゆーか、あたしはしない。ぜったいしない」
 清水さん、テーブルに置きっぱなしの紙袋、目ざとくそう判断して指、差した。ねえ、そうだよねえ、となっちゃんと視線を交わす。望月君は、
「おまえもともと弁当作らねーじゃん。じゃなくて、いやでも、立野さんのことだから、わざわざ情け深く作ってあげるのもありだろ」
 って意見を、提案、する。
 けっきょくのところ、なにがどうなんですか、というなっちゃんと望月君と清水さんのまなざしに、わたし……。
 え……、あの……。
「これ俺の弁当? 食べていいの?」
 紙袋、引き寄せる植田くんに、手、を、差し出した。
 本当はお弁当、なんてどうでもいい植田くん、なに? ってわたしを見る。
 わたし、は。
「……箱、ちょうだい」
「ハコ?」
「指輪……、のケース」
 指輪、だけもらった。ケースがない、から。もらった指輪、どうしていいのかわからない。その辺においておくのも、できない、から。
「ずっと、はめとけば?」
 部屋の、中の視線全部がわたしの指、見る。もう、それだけで、指輪もらったこと、とか、プロポーズ、受けたこと、とか周知の事実、になって。わたし、慌てて手を隠した、けど。今ははめてない。
「あのデザインだと、日常生活中はジャマなの」
「……ジャマとか言うし」
「でもっ」
「でも?」
「でも……指輪、大事、だから。ケースちょうだい」
 ……本音。
 大事、とか。そういう気持ちを口にするのが恥ずかしくて、うつむいて。それでもなんとか、言ったら。
 がこってすごい音がして、望月君が椅子から落ちてた。え?
 望月君、打った腰をさすりながら、
「す、すんません、師匠に放たれた立野さん発めろめろびーむが、こっちまで飛び火してます。出力を下げてください」
 って……。
「え?」
「ちなみに師匠は、立野さんそりゃもうかわいくて仕方ない攻撃の直撃を受けて放心してます」
 ぽかんとわたしを見てた植田くん、望月君の言葉に慌ててジャケットのポケットに手を突っ込んだ。そこに、持ってたものは、指輪のケース、のはず、なんだけど。
 ふと、何かを考えて、ポケットから手を出した。なにも、ポケットからは出さない、まま。
「今……は、持ってないから、今夜、渡す」
「え、うそ。今、ポケットの中……」
「ない。なにもないから。今夜……」
 今夜、渡す、から。
「泊まってく?」
 みんながいるから、だからいつも通り見せようとムリしてふるまってた、みたいな、たががはずれた、ように。
 この、部屋に、誰もいないみたいに。最初からずっと、わたししか見てなかったみたいに、言った、から。
「ぎゃああああああ!」
 清水さんが耐え切れずに悲鳴を上げた。望月君は、なにも聞いてません、と両耳をふさいで、なっちゃんは、なにも聞こえてなかったみたいに、お弁当のふたを開ける。みんな顔が赤い、けど。一番赤いのわたし……で。
「朝まで抱いてたい」
 植田くん、は、
「いい? だめ? でも、だめは言っちゃだめ」
 相変わらず、
「いいよって言って。ここでいいよって言ったら、麻子はみんなの前で言った手前、あとからやっぱりイヤとも言えないから」
 ……手段に、見境が、なくて。
 どう……。
 見れば、植田くん以外かたまってる部屋の、中で。わたしだって、かたまってる、のに。
 どう、返事、というか対応をしたらいいのか、考えてた、ら。
「あ!」
 大声あげた植田くん、わたしのお腹、触った。
 清水さんが、セクハラ無敵大魔神がいますって警察に連絡していい!? って出した携帯、望月君が慌てて取り上げて、でも取り上げた携帯、どうしていいのかわからなくてなっちゃんに押し付ける。そんな、みんなの、前で。植田くん、わたしのお腹に、触ったまま、
「もちろん、大事に抱く。お腹の子に悪いから」
 ごとん、となっちゃんが清水さんの携帯、テーブルに落とすまで、時間が止まってた。
「で……きてないっ」
 わたし、植田くん、部屋から連れ出して、ドアを、閉めて。
 不思議そうな顔をする植田くんに、
 叫びたい声、潜めた。
「できてませんっ」
 そんなこと、植田くんだって、ちゃんと、
「わかってて、した、んじゃないの?」
「なにを?」
「多分、大丈夫な日って……」
 安全日、なんてないのは分かってる。でも。
 わたしに、微妙な表情をする植田くん、に。
「だって、あのあとすぐ生理、きて……だから」
 植田くん、わたしのお腹触って、それからふいと視線、そらした。そらしたまま、わたしの肩口あたりの壁に、額を押し付けて。
「そっか」
 って、呟いた。
 ふたりきりに、なって。
 みんなには見せない姿、見せる。
「……なんだ。そうか」
 あの日、乱暴にした、ことに。その結果に。
 わたしのからだを気遣って、安心、したみたいに。
 形にならなかったものが、残念だった、みたいに。
 自分のしたことが、罪にならなくて安心したみたいに。
 それでも罪を犯したままでいたかった、みたいに、
 全部計算してて、それくらい、手放したくなかったものがあったんだと、いいたげに。
 全部計算じゃなくて、いっそ失っても、それでも伝えたかったことが、あった、みたいに。
 植田くんが本当に思ったことは、わたしには、わからない、けど。
 額、押し付けたまま、
「俺がそこまで計算してたと思って、今まで、怒ってた?」
「……うん」
「俺が、したことに対して、は?」
「したこと……だって。怒ってる。絶対、許したりしない」
 植田くん、が、息を飲んだ。顔を、上げられずにいる。
 そんな、植田くんの、
「今度、あんなことしたら、もう、二度とわたし、植田くんの前に姿、見せない、から」
 視線が、ゆっくり、わたしに戻った。
「……いっそ、俺を殺す?」
「いや。いなくなるのはいや。でももう、見たくない」
 植田くんを見据えると。
 植田くんの表情が、すぐ、そばで。強がってるみたいに覗き込んできたまなざしの、奥のほうががひどく、揺れた。
「でも。悪い、けど。……あの日の俺も、嘘じゃない」
 嘘にはしない。
 なかったことにはしない。
 心が、揺れても、ごまかしたり、しない。
「うん……。だから、もう、しないで」
「立野は、それで俺を許す?」
 そんなことで、許す?
 そんなことで許す、わたしが。
「立野……ばか、だなあ」
「……そう?」
「そーだろ」
「じゃあわたしも」
 わたし、植田くんのジャケットの襟元、掴んだ。
 襟元、引っ張ったら。
 腰をかがめた植田くんが、近付いてくる。
 じゃあ、わたしも。
「わたしも、見境をなくしてるんだよ」
「……立野が?」
 わたしに、そんなことあるわけないみたいに、まさか、と言いたげな植田くんに。そうだよ、と答えた。
 だって……。
 吐息、すぐ、傍で。
「だって、わたしだって手放す気は、ない、んだよ」
「俺、を?」
「……うん」
「……そ、っか」
 やっと、呼吸の仕方、思い出したみいたに。植田くんは深く、静かに息を吐き出した。
 触れるだけのキスを、された。そのくちびるが静かに、静かに言った。
 愛してる。
「やさしく……これ以上ないくらいやさしくするから、今夜は俺の傍にいて。……今夜も、傍にいて」
 言って欲しいと思ったことを、言って欲しいと思う前にくれる、くちびるに、触れ返した。


     ◇


「……で、けっきょく師匠は締め出し続行ですか」
「危険物は分別するのは常識だから、当然っ」
「って、ゴミ扱いかよ」
「そう、しかもかわいい家庭ゴミレベルじゃなくって、粗大ゴミ? 違うな、産業廃棄物。そう、産業廃棄物。社会でも大問題重要事項」
「……清水の愛情の裏返し表現はすごいな」
「裏返してないよ。なんで裏返すの、おもてだよ」
 力説する清水さんの代わりに、望月君が、すみませんねえ、と謝った。
「ひどいこと言ってますが、多分、ほんとーにどーでもいいひとのことだったら、口にもしないと思いますよ、清水は」
 そんなフォローしてくれなくていいです、という清水さんに、なっちゃんが、
「あ、それで清水さん、いっつも望月君のことすごく……」
 さらりと言いかけて、はっとして口をつぐむ。つぐんだこと、ごまかすのに、食事が済んで、割り箸、割り箸の袋に戻して空になったお弁当の箱の中に押し込んでふたをする。
「え、なんすか。清水がいつもなんですか?」
「えーと、あの……」
 言いにくそうななっちゃんの代わりに、清水さんが、堂々と、
「望月くんがいかに、バカ! なのかを、数々の体験談と共に報告してるだけだもん」
 ですよねー、とわたしとなっちゃんに同意、求める。ええと……。
 とりあえず、笑ってごまかすと、望月君はがっかりして、
「いいんですー、それもオレへの溢れんばかりの愛情激情の裏返しだと思えばぁ」
「だから、裏返してないよってば。おもておもてっ」
 食べ終わった食事を片付けて、わたしが、なんとなく……じゃなくて、意識して、ドアの向こうを見、たら。
「入れてあげればいいのに」
 なっちゃん、にっこり笑って、折りたたみの携帯、開く。
「仲直りしたんじゃないんです?」
「……一応」
「やっぱりケンカしてたんですか?」
「……一応?」
 そうなのかなあ? って聞き返したら、わたしに聞かれても、ってなっちゃん、困ったみたいに笑った。笑い、ながら、
「えーと、じゃあ。あらためて、おめでとうございます」
 清水さんと望月君にも、おめでとうございます、って言われて。
「あの……。ありがとう、ございます」
 恥……ずかしくて。暖房の効き過ぎでもないのに、顔中、熱くなった。
 これで隣に植田くん、いたら、耐えられない、ような気がする。
 こんな……、喧嘩して仲直りして。そんなふうに一緒にいるところ、見られるの恥ずかしくって、追い出しちゃった、けど。植田くんもそうだったのかどうだったのか、同じように照れくさかったのか……そんなのありえなくて、わたしの気持ち、とか、尊重してくれて、おとなしく、部屋の外にいてくれてる、のか。
『麻子さーん』
 ドアの向こうから、呼ばれて顔、出したら。食べ終わったお弁当箱、返してくれて、お茶クダサイっていうから、お茶、あげた。
「あの、部屋に、入る?」
 ドアの脇が、すっかり指定位置みたいに座り込んでる植田くん、わたし、見上げる。
 部屋に、入りたくないわけはないんだろうけれど。そんなふうな表情を、見せるわけでもなかったから。
 昼食も済んだこと、だし、
 もしかして。
「もう……帰っちゃう?」
 自分で聞いておいて。時計、見て。
 お昼の休憩時間、たくさん残ってるわけでも、ないんだけど。あと、少し、なんだけど。それでも、
 植田くん、このまま帰っちゃう、のも、
「あ、でも、もう帰っちゃうのは、なんとなく、イヤ、かなあ」
「俺も、このまま帰っちゃうのは、なんとなく、イヤだなあ」
 のんびり、そんなこと言い合ってたら、なっちゃんに呼ばれた。植田くん、
「休憩終わったら、望月たちと帰るよ」
「……うん」
 なっちゃんが呼んでるぞ、ってひらひら、手を振られて、わたし、部屋に戻る。
 ドア、一枚隔てて。すごく変な気がするけど。すごく、穏やかな気もした。ふわふわ、いろんなことのバランスが、釣り合ってるみたいで。油断すると、なんだかおかしくて笑っちゃう、みたい、で。
 そういうのは植田くんも同じ? どう、なの、かな。
「立野さん、立野さん、高橋君からのお祝いメール来ました。見てください」
 なっちゃんが携帯の画面、見せてくれた。
 清水さんは、身を乗り出して、すごく大事なことみたいに、
「ちょっと立野さん、植田クンえらそーにいつの間にか立野さん麻子呼ばわりですけど、立野さんは? なんて呼びます? てゆーかあのひとなんて名前?」
 知らないのかひどいな、ってぽそりと植田くんの声、聞こえて。
 わたし、ちょっと考えた。植田くんの名前……、なんて呼ぶのか、って。
「……己陽(みはる)……ちゃん?」
『ちゃんはヤメて』
 すかさず、植田くんに言われた、けど、
「でもみっちゃんて呼ぶといやがるよね?」
『そんなふうに呼ぶのはお袋と姉貴だけで十分』
 ドア越しの、会話に。
「あはは、みっちゃん! 己陽ちゃん! かわいー」
 清水さんにはすごく好評、なんだけど。なんとなく、ドアの向こうからの、ほめられてるわりにはいまいち素直に喜びきれないみたいな空気に、望月くんが、慌てて、
「それより師匠、いったいどんなプロポーズしたんすか?」
 ぐるんと、椅子ごとドアに見向く。
 ……ドアの向こうから、返事はなくて。
 微妙な空気が流れて。望月くん、なんか悪いこと聞きましたか!? ってあせって、
「え、あれ?」
 わたしのこと、見られても……。
「そんなすごいことしたんすか?」
『そうだな、いつかおまえと酒を飲めるようになったら……』
 多分、というか絶対、本当に言う気はない、んだろうけれど。
「己陽ちゃん、言ったら絶交」
 ってわたしが、静かに、言ったら、
『ごめんなさい。言いません。言えません』
 間髪入れずに返ってきた返事は、植田くん、ドアの向こうでひとりでお手あげのポーズでも取ってるみたいで、望月君と清水さんとなっちゃんは、
「なに? 植田クン、なにやらかしたんだと思う!?」
「師匠の考えにオレが至るようになるまでにはまだまだ……ということでわかんねえ」
「でも、プロポーズの後にケンカって……」
 なんなんだろうねえ、と顔を見合わせた。
 わたし、は。
 わたしに話を振られても困る、から、残ってたお茶を飲み込んだ。
 気を取り直した清水さんが、そういえば、と、なっちゃんの携帯の高橋君メールをそれとなく気にしながら、
「旅行っ。温泉旅行、ほんとに連れてってもらえるの?」
 植田くんが、話がそれて安心したのか、旅行が楽しみなのか、いつもの調子で、連れて行きますとも、って返事する。清水さん、テーブルの上で手帳を開いた。
「やった。合格発表後って、あたしたち、この辺りからもう暇なんですけど、いつにします? 立野さんと奈津さんのお休みいつです? あ、高橋少年も行くのかな? だったら春休み? でも望月君が旅立つ前だから……あれ、みんなって、このみんな、ってことでいいんですか? 電車? 車? みんなだと六人だから、植田クン車だとムリだからレンタカー?」
 残ったお昼の、休憩の間中、そんな話をしてた。
 わたしは、なんだかおかしくてひとりで笑った。
 きっと、植田くんもこっそり、笑ってるような気がした。うん、きっと、笑ってる。
 植田くんと再会して一年が経って。
 気付くと、ここで、こんなふうに、みんなであたりまえみたいにしてる。
 次の、この季節の、この日はなにをしてる、んだろう。
 誰といて、どんな話をしてるんだろう。
 こん、と音がして、ドアを見た。その向こうにいる植田くんを、見た。ドアにもたれて、みんなの話を聞いてる。
「立野さん、後でお仕事暇になったら、こっそり、ネットで宿とか見ません?」
「そう、だね。宿と、あとレンタカー?」
『車は多分、姉貴んとこから借りれる、はず』
「だそうだから。じゃあ、宿だね」
 とりあえず、次の季節が来るころには、みんなで温泉旅行に出かけてる。


おわり


※別窓で開いています。読み終わりましたら閉じてくださいませ。








あとがき

以上です。終了です。
立野・植田編 及び シリーズ終了、です。
 一度くらい、このふたりは、も少しふつーなR指定場面を書きたかった……ような気がします。というか、もう少し普通のプロポーズとかでもよかったんじゃないかしら、とか。
 そういえばプロポーズなんてはじめて書きました。そういえば電話えっちを書いたのも、OLさんなんて書いたのも、思えば立野サンがはじめて、でした。
 以下ぐだぐだあとがきは、06.02.23日記など参照してください、です。うはあ。。