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天使ニ目隠シヲシテ 神ニ逆ラオウ




   
無垢−innocent





「彼はもともと、とても優しい人間なんです。でも、それは彼には必要のないもとして排除することを強制された。捨て切てればよかったのに。彼は……心と記憶のずっと奥に……自分ですらそんなものを持っていたことを忘れてしまうほど奥に、閉じ込めてよしとしてしまった。本当なら、すべてを愛すことのできた、優しさを……」
 それはカトルの独り言だった。心の中で呟いただけの、他人には聞かれてはいけないはずのことだった。
 自分だけが彼の本質を理解したつもりでいたかった。
 なのに。
「ええ、本当に、そうなのでしょうね」
 すべてを悟っているふうに、決して傲慢でなく、聖母のように彼女は彼を見ているから。いつも見ているから。
「……彼を、愛していますか?」
 つい、ばかなことを聞いてしまった。
 緑があふれ、花の咲き乱れる美しいサンクキングダムの庭園で、理事長として、そして生徒の一人として薄桃色の制服に身を包んだ彼女は、初め驚いたふうに問うた者を見た。
 それから、ただ静かに口元に微少をたたえた。
 それだけだった。
 ……それだけでじゅうぶんだったのだ。
 本当にばかなことを聞いてしまったものだ、と、カトルは苦笑するしかなかった。


 彼女が『リリーナ・ピースクラフト』と名乗っていた頃の、それはもう、一年以上も前の話だけれど……。


 そう、一年以上も前の話になる。なのにカトルはまだ彼女の仕種の一つ一つを鮮明に覚えていた。
 覚えているしかなかったのだ。
 彼を愛していると言った彼女のことを。
 彼に愛されている彼女のことを。
 そして『自分ノ愛シタ彼女』を……。


      ◇


 リリーナ・ドーリアンがカトルのもとを訪ねてきたのは、マリーメイアを盾にしたデキム・バートンが起こしたクリスマス革命が鎮圧されて、数週間後のことだった。一通りの事後処理を済ませたリリーナは、貴重な休日をカトルの訪問にあてた。驚いたのはカトルだった。
「リリーナさん!? どうしたんですか、わざわざこんなところまで」
 こんなところ、とは、地球から遠く離れたこのL4コロニーを指した言葉だった。
「ごめんなさい、あなたも忙しいのでしょう?」
「僕のことはかまいませんけれど、あなたは……」
 カトルは思わずカレンダーの日付を確認していた。
「確か、三日後……のはずでしたよね」
「ええそう、三日後、になるわね」
 まるで何事もないようにリリーナは小首を傾げ、笑んでいた。
 革命終結後にカトルの見たリリーナはきっちりと髪を結び、きっちりとしたスーツ姿をしていたが、今はわりとラフな格好をしていた。おろしている髪がふわりと揺れる。柔らかい触れたくなるような髪だ。カトルが一瞬眩しげに目を細めたのには気が付かずに、リリーナはくすりと笑った。
「私を歓迎してくださるのかしら? それとも、もう取ってしまった帰りの便のチケットに表示された時間が来るまで、一人でコロニー見物をするべきかしら?」
「それはあなたのご意向のままに、ですよ。僕と二人でお茶を飲みたいですか? それとも僕と二人でコロニー見物をしますか?」
「では、お茶をいただくわ」
 クリスマス革命以前にも、二人は何度か会議と称した集いで顔を会わせていた。ほかの出席者と違って年が近いせいか、それとも顔見知りのせいか、一緒にいることが多かった。お茶を間にしてたわいのない会話をするのにも慣れていた。
「とっておきのお茶を入れましょう。リリーナさんの気分転換になれば幸いです」
 にこやかに、あまり深く考えることなく言ったカトルは、屋敷へリリーナを迎える。
「それで、帰りは何時の便を手配してあるんですか?」
 カトルは確認のつもりで何気なく聞いた。リリーナも忙しい合間をぬって来たのだ、もうお昼を過ぎているが、遅くとも夕方の便で帰るのだろうと思っていた。
「……リリーナさん?」
 リリーナがなかなか答えようとしないので、カトルはもう一度聞いた。今度はリリーナもきちんと答えた。ただし、それはあまりきちんとした答えでは、なかった。
「今夜の、最終便、です」
「……え?」
 思わず問い返しながらも、見やったリリーナの表情にカトルは苦笑してしまった。そして、苦笑した自分にはっとして、息を呑んだ。
 ……同じだった。
 『あのとき』と同じになる。
 立ち止まったカトルを、リリーナは、その顔で、見上げた。
 たった一人を想っている、その顔で。
「なんて女だろうと、あなたは思っているわね」
「……いいえ」
 それは正直な気持ちだったけれど、やましさを抱えていたリリーナは素直に受け取ることができなかった。
「……どう思われてもかまわないわ。でも、私を無理に帰そうとしたりしないで、お願い。だって、いちばん酷いのは『あの人』なんだもの。あなたもそれを知っているはずだもの」
 必死……というわけでは、なかった。彼女は淡々と事実を述べているにすぎなかった。
「リリーナさん……」
 カトルは扉口で立ち尽くしてしまったリリーナに、手を差し伸べるしかなかった。
「僕は今、ここで一度立ち止まりました。でも次があることを期待しないでください」
「……そんなこと、しないわ」
 リリーナは躊躇わずにカトルの手を取っていた。
「だって私は、ここに来ることをただの一度も躊躇ったりしなかったんですもの」



 カトルが苦笑したのは、たった一人を想っている、けれどその相手はいつも傍にはいてくれなくて、拗ねている、そんな顔をしたリリーナを微笑ましく思ったからだった。同時に、うらやましくて、そんな彼女を妬んでいる自分が無様だったからだった。
 ……あのときと、同じなのだ。
 躰はあのときよりもずっと成長しているのに、心はまるで成長していない。
 だからまた、中途半端な優しさしか持てない自分は……彼のように徹底した冷たさ
という優しさを持たない自分は、彼女が望むまま、自分が望むまま、彼女に触れてしまう。
 抱いてしまう。
 言い訳なら、もう用意してしまっているのだ。
『だって、彼女が僕の手を掴んだのだから』
 と。



 カタリ、と、カップを受け皿に戻す音がわざとらしく部屋に響いていた。自分たちはお茶を飲んでいるだけなのだと誇示するような、ひどく言い訳めいた音だった。一見楽しげに会話する姿を装っておきながら、その音がするたびに、二人は悲鳴をあげたくなるのをこらえているのに。
 カタリカタリと、高価な陶器のぶつかる音は、それだけが互いの嘘を見抜いているようで、愚かな奴らだと嘲笑っているようだった。
 一度目なら、まだ戻ることのできる過ちだった。
 けれど二度目は……?
 戻れるのだろうか。ごまかすのだろうか。これは、互いの愛ではない、と。
「もう彼を縛りつける鎖はありません。……鎖は僕からも取れた。僕達五人は、みんな開放されたんです。この手を血に染めることは二度とないでしょう」
「あなた方に限らず、世の中とは本来、そうあるべきなのです」
「……宇宙とか世界とか世の中とか、僕はいつまでもそんな大きな話をしていたかった」
 カトルがお茶を口元に運んでいく。それをテーブルに戻すと、またカタリと音がした。
「僕にもっとも罪な血の赤を見せたのは、誰でもないあなたなんです。僕が殺めてきた兵たちの血も、あなたが見せたあれほどには鮮明じゃなかった。だってそうでしょう? 普通なら誰だって最初は……っ」
 声を荒げようとしたところで、視線がぶつかった。カトルは言葉を飲み込んで小さく息を吐き出した。
「僕は、あなたはとっくにヒイロのものだと思っていたのに」
 ヒイロ。
 それが「彼」の名前。
 ……カタリ、と音がする。
 押し込められた想いが上げる悲鳴が聞こえる。
 リリーナを初めて抱いた男は、カトルだった。
 ……彼女のあげた微かな悲鳴は、まだカトルの耳に残っていた。その場所は、美しい庭園を眺めることのできた教室。苦笑した自分と、微かに笑む彼女の視線が合ったとき、唇は重なっていた。
 一年以上も前の話。
 ただそこに、同じ想いだけがあった。

 彼ヲ愛シテイル。

 傷を舐め合う双子のように。
 鏡の中の自分とそうするようにキスをした。
 清らかな自慰のようだった。
『……カトル…………』
 覚えている。微かな、微かな悲鳴。
 唇と唇のキスだけじゃ足りなかったから、肌を重ねた。
 プリンセスには極めて不似合いな場所で、あるいは、「本来」プリンセスになるべきだった彼女には似合いのその場所で。
 ざらつく床を一緒に舐めた。
 欲しかったのは、他人を感じる肌だけだった。まるで自分でしてるみたいに、爪を立てて吐き出す場所と、指を入れるみたいに受け入れる場所があればよかった。
「……あのとき、お互いの相手は誰でもよかった。でも僕に限ってはあなたであるべきではなかったのかもしれない。躰が誰かを抱きたいと叫んでも、あなたを相手にするくらいなら自分でしたほうがマシだった」
「酷いことを、言うのね」
 リリーナは空になったティーカップを眺めた。白いカップに着いた口紅がひどくいやらしく見えて、それを指先で拭き取る。
「あなたの中にも、あの人がいるのに」
 眺めたのは、指先についた口紅。
「あの人は、私があなたに抱かれたことを知っているのに……」
 口紅は、初めて男を受け入れた躰が流した血の色に似ていた。
 股の間に異物を受け入れた証。ずるずると入り込んできたもの。子孫を残すという本能とは別に、悦びを感じるためだけに、それだけのためだけに、他人が……男がその場所を侵すことを躰は許した。
 透明の液を流して、感じた躰の入り口を濡らして、入りやすいように導いた。
 そんなことは、同じなのだ。
 相手が誰であろうと。
 心が許してしまった人間なら。
 心が許してしまった男なら。
 透明な液体はとめどなく溢れ、重なった二人の間からしたたり落ちていく。
 心が許してしまった男の腕の中ではあらがえない。受け入れるしかない。ずっと奥まで。何度悲鳴をあげても、気を失っても。ましてそれが「あの人」を共有する人物であるのなら。共に「あの人」を愛してくれると言うのなら。一緒にいたいと思うこともある。いや、一緒にいたいのだ。
 あの人が決して「私」を抱かないと言うのなら。


 タイムリミットまで、あと三日しかないのだから。


「ヒイロは、私に触れようとしないわ」
「それだけ大切にされていて、ほかになにを求めるんです?」
「私は……あの人と対等な位置に一緒にいたいの。大切にされているだけでは嫌なの」
「けれど僕は……僕だって、あなたを大切にしたかったんです。誰の心よりも彼が色濃く宿っているあなたの心を、彼が大切にするあなたを」
 なぜかこの二人は声を荒げることをしなかった。性質なのか、それとも、力の限りそうすることを押さえているのか。
「僕はあなたには触れたくない、彼よりも先に、もう触れたくないんです。でもおそらく彼はこの先もあなたに触れることはないでしょう。だったら、そのせいであなたが彼以外の誰かの温もりを求めたいと言うのなら、それは僕であってほしいとも思う。あなたは、僕にしか、抱かれてほしくない」
「私がなぜあなたを求めるのか、あなたは、よく知っているということね」
「想いを秤にかけるような趣味は、僕にはありませんけれど」
「私のほうが彼を愛しているわ……なんてことは言わないわ」
「……では、僕も言わないことにします」
 互いを理解した笑みを交わした。
 ただ一つ、カトルが「彼」を想っていることをリリーナは責めない。それだけがたったひとつのウィークポイントなのに。カトルも「彼」も男なのに。そんなことは関係がないのだと、そのことについてだけは笑って許してくれる。
「彼は、僕があなたを抱いていることを知っている……」
 ポットに残っていたお茶ももうすっかり冷めていた。
 立ち上がったカトルは、リリーナの首筋に唇で触れた。
「彼は、あなたでなく僕を抱きにやってくる」
「そのときは、あなたが私をまた抱いてくれればいいだけ」
「ほんとうに?」
「……ほんとうよ」
「では、あなたは僕に彼を感じてください」
 胸元に滑り込んだ舌の感触に、リリーナは喉を詰まらせた。やがてそれはかすれた吐息になる。
「いつでも、感じているわ、カトル……」
 リリーナは確かにカトルの名を呼んで。切なげに目蓋を閉ざした。
 カトルは閉ざされた目蓋に、さらに自分の胸ポケットから出したハンカチで目隠しをした。
「カトル……?」
「どうか、目を開けないで。あなたはただ彼だけを感じていて」
 躊躇いなく自分に白い肌をさらす彼女を、純粋に男として、カトルが愛しいと思わないはずがなかった。一度は人類の頂点に立った人間でもある。その彼女を、彼への想いと共に組み敷くのだ。
 たとえば彼女なら、この関係を「対等」というのだろう。
 けれど。
 知っている。
 対等なんかじゃない。
 今は、彼女は自分のものなのだ。彼のものでもない、まして彼を共有するものでもない。
 彼の愛している彼女を腕にすることで、まるで彼に勝ったような気さえした。勝つことで彼の愛を手に入れたような気になっている。彼女の中に自分を押し込めて想いを放っているのに、自分は、彼の手の中に放ったような気になる。
 彼女の声が彼の声に聞こえる。
 勘違いしている温もりに悦びを感じて高ぶって。
 愚かだと、本当は心の中で泣いているのに。
 神の使者のように無垢な、彼が想う彼女を、こんなふうにもっとも汚れた、あるいはもっとも清らかな欲に染まった精液で塗れさせて。
「……カトル」
 彼女は泣き声のように求めてくる。
 抱き上げて連れていったベッドのシーツはもうしわくちゃだった。
「なぜ、その名前で呼ぶんです?」
「だって、あの人に抱かれたことがないもの」
 だからどうやってあの人の名前を呼べばいいのか分からない、と。
「じゃあ、僕は誰の名前を呼んだらいいんです……?」
「……私の、名前を……」



 ……どうしてこんなふうになってしまったんだろう、と後悔することはなかった。
 二人は次にどこかで会ったときには、なにごともなく、共に少年であり少女であった頃からの知り合いで、互いの笑顔を懐かしんでお茶を飲むのだ。
 でも。
 それでいい。
 それがいい。
 今、抱き合っている自分たちがいるのはまったくの、別の空間だから。
 天使に目隠しをして、神に逆らおう。
 いたわりなんかいらない。
 目隠しなんかしなくても、天使がおもわず顔を背けるように、まるでレイプするように、目茶目茶にしてしまえばいい。目茶目茶になればいい。
 ……また。
 あのときと同じように。
 カトルも。
 リリーナも。
「……ん……」
 いや……と否定する言葉を口にしながら求める。求めてくる。もっと欲しいと、子供のように欲望に素直になって抱きついてくるから、抱きしめる。
「……リリーナ、さん……」
 もうどちらも止まらないことを、カトルはとっくに承知していた。……承知していた……自分も男なんだと思うある一方では、彼に抱かれることを望みながら……。
「…………っ」
 リリーナはよく声を上げた。感度のいい美しい人形だ。
 目隠しをしたせいで、ほかの神経が過敏になる。唇よりも先に吐息が触れただけで、肌は敏感に波打った。
 カトルは一度離れて彼女を眺めた。肩から足の先まで、特別にあつらえられた極上の人形のようだ。彼女の、形のいい胸に、顔を埋める。
「僕はあなたに恋すればよかった」
 おそらくは彼の次に、誰よりも愛シテイルとは思うけれど。
「もしもそうなっていたら、私、あなたにだけは抱かれないわ」
 本当は、彼の次に誰よりも愛しているのかも知れないけれど。
 一番が、重要だから。
 誰が一番なのかが、重要だから。
 それ以外は、どうでもいい。
「彼よりもあなたを落とすほうがたやすいですよ。きっと、僕にとっては」
「……だめ、私はあの人のもの以外にはならないわ」
 カトルは爪の先までキスしながら、つぶやいた。
「そう、ですね」
 また苦笑していたのかもしれない。そう思いながらリリーナから目隠しを外してやった。開いた彼女の双眸に自分が映る。同時にその瞳に込み上がってきた感情を読み取って、カトルは目を逸らした。
 彼女はカトルの名を呼び続けながらも、「彼」しか感じていなかったから、だから、目の前にいた「カトル」に激しく失望した。そんな顔をしたのだ。
 私ガ欲シイノハ、コノ人ジャナイ。
「カトル……私……」
 でも。
「だめです。もう、許してあげられません」
 ここにいる二人以外に、誰が互いの熱を静めてくれると言うのか。
「……そうね、そうだったわね」
 リリーナは伸ばした手で、カトルを抱きしめた。
 二人で、ベッドに沈み込んだ。



 愛のないセックスに意味はないと思っている。快楽を求めて時を忘れるためだけのものだと思っている。
 だって、快楽の絶頂を迎えたときに自分を抱いているのは、本当は一番愛しているあなたなのだから。
 あなたしか見えないのだから。
 そうでしょう?
 そうだろう?
 いつだって、この心を支配しているのは、あなたなのだから。


      ◇◇


 カトルは洗面台にもたれて、薄いガラス扉の向こうから聞こえてくるシャワーの音を聞いていた。磨硝子にはぼんやりと、リリーナの肢体が浮かんでいる。
「……リリーナさん」
 呼びかけは微かで、シャワーの音に掻き消されてしまった。カトルはもう一度呼ぶ気にはならずに、洗面台の鏡に映る自分を眺めた。



 同じモノを愛する者よ
 魂の近き者
 汝、我となりて 我、汝となる
 そして我は我に 汝は汝に帰せよ
 想いの先に帰せよ
 帰せよ 帰せよ 帰せよ
 汝は処女へと 我は無垢へと
 でなければ、彼の人のもとへと
 帰せよ 時さえも


 
 やがてシャワーが止まって、リリーナが裸のまま出てきた。シャツ一枚を羽織っていたカトルは、少し大きいかなと思いつつ自分のバスローブを渡してやる。そのついでのように、二人、キスをした。
 いく時間も肌を重ねていて、この日初めて交わした唇だった。


 魂ノ近キモノヨ イツカ 彼ノ人ヘト帰セヨ


      ◇


 自らの運転でリリーナを空港まで送り、屋敷へと戻ってきたときにはさらさらと雨が降りだしていた。ウェザースケジュールを確認すると、三十七パーセントの降水確率になっている。今夜一晩は小雨が続くのだろう。
「うっとうしいな……」
 一人ごちて車を降りる。
 ……と、人の気配を感じて振り向いた。常人であったらまず気付くことのない気配だ。
 振り向いたカトルは、しかしそこにいた、勝手に屋敷内に入り込んでいる人物を見ても特に驚くことはなかった。
 なぜなら、だって、あと三日しかないのだから。時間のないことを敏感に察知して、彼女ですらここに来た、では彼がここに来るのも、半ば当然のような気がしていた。



「……さすがの君も、風邪を引いてしまうと思うよ?」
 「彼」は背を向けて立っていた。シャトルの最終便ですら出発してしまったこんな時間では、黒色に近い彼の髪も瞳も夜に混じって見えない。まして表情は、とうてい窺うことはできないけれど。
 雨が降っているから。
 降っている雨が、彼を濡らすから。
「ヒイロ、お茶を入れるよ。中に入らないかい?」
 呼んでも、ほんの少し彼の……ヒイロの肩が動いただけだった。
「僕は中にいるよ、早くおいで。僕の躰から、彼女の香りが消えてしまわないうちに」
 カトルはさっさと屋敷の中に入っていく。ヒイロに振り向くこともない。彼は、必ずやってくるから。待っていればいい。
 見えなかったはずのあの表情も、知っている。
 自分に彼女を感じて、とても穏やかで優しげで、彼女の名前を呼びながら自分を抱くのだ。あるいは、自分の名を呼びながら彼女を抱くのだ。
 彼は彼女を愛シテイル。
 でも彼は彼女を抱かない、触れない。決して。
 彼女は地球に咲く赤い鳳仙花ではないのに。抱いただけで、触れただけで壊れたりしないのに、壊れると思っている、壊してしまうと思っている。それほどの激しい想いを隠すために、努力している。
 愚かで、そして愛しい君。
 神が創造された女性の中でも、最も価値のあるものと認めた彼女には触れられない。臆病な真白の天使。無垢が見せる幻の無知を盾にして、君を愛する者をいつも傷付けてばかり。触れるだけで傷を癒せることを知らない。
 触れてごらん。ここに来てごらん。待ってるから。
 待ってるから。
 そして僕は手にするんだ、君の−−―を。
『君は、君だけの君だけにしかできないやりかたで君を癒せばいい。それを他人が笑っても、それが君のやり方なのだから。君は、君なんだから』
 カトルの言葉に、あのときの彼は納得したふうに頷いて、そしてカトルを抱いた。
 ……今も同じだよ。待ってるからおいで。早くしないとタイムリミットになってしまう。あのとき彼女が世界のクイーンになったように、今度もまた遠い人になってしまうだろうから。その前に、まだ手が届く場所にいるうちに。
 もっとも、待ってなどいなくても、彼はドアをノックする。
 カトルは温かいお茶の用意をすると、しわくちゃなままのベッドに腰を下ろした。
 ほどなくして、ノックが響いた。



 ……彼女を想いすぎてどうすればいいのかわからなくなったら、僕のもとへおいで。誰かを抱きしめればいい。僕がその誰かになる。ただし覚えておいて、僕が僕であることを、君に抱かれる僕は、彼女ではなく君を愛している僕だということを……。


      ◇◇


 ウィナー家の所有するビルの一室で、いく枚もの書類に目を通していたカトルはふと、時計を見やった。
 あの日からちょうど三日、経つ。
 ……この時間なら、もう始まっている。腰を上げTVをつけるとチャンネルを合わせるまでもなく、目当ての人物が画面に現われた。おそらくどの局も集中してをれを中継しているのだろう。
 画面には世界中の誰もが知っているままの凜とした姿をした彼女が堂々と立っていた。
 次期大統領選挙参選のためのスピーチを述べる、リリーナ・ドーリアン。
「あなたは、次はいつ彼の元へ帰ってきますか?」
 カトルはTVに向かって呟いた。
 彼ノ元、スナワチ自分ノ腕ノ中ヘ。
 カトルは、彼女のスピーチをじっくり聞きはしなかった。彼女がなにを望んでいるのか、なにを言おうとしているのか、そんなことは聞かずともわかっているから、TVを消す。
 椅子に腰掛けると、再び書類に目を通し始めた。
「待っていますよ、僕はいつでも彼の想いをあなたに伝えてあげることができるのだから」
 ただ、彼の想いはあまりにも無垢で、そのうちに自分の色に染まってしまうかもしれないけれど、それでも、忘れることはないから。
 決して忘れないから。
 彼がどれほどあなたを想っているのか、思い知っているから。


 必ず、あなたに伝えるから。


おわり









あとがき
 実はマキハラノリユキさんの某歌が頭にあって書いていたおはなしなので、かなりその影響を受けています。カップリング曲だったので、知らない方は知らないですよね。
 わりといろいろな言葉を恥じらいもなく使ってます。当時のわたしの勇気に乾杯。
 ええ、まあ、なんだか、カトルもリリーナもヒイロが大好きという……ヒイロは……ええと、その……。



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