地球の風 ACT3
地球上の最も南の大陸に足を下ろそうとして、ヒイロは躊躇っている自分に気が付いた。
遙か一面、氷の大陸。
冷たい白。
……不意に、灼熱だったあの土地を思い出した。
ザワリと耳元が熱くなる。……離れていったきりの、デュオ・マックスウェルの体温……。
あの後、自分が黙っていなくなったあの場所で、彼がいったいどういう態度をとったのか、容易に想像ができて苦笑した。
白のこの大地で、黒の(自称)死神を、思い出す……。
直後、とどろいた爆音。
ヘビーアームズが、ロームフェラ財団調査隊最後のモビルスーツを破壊した音だった。
遠目に、ノインとかいうゼクスの使いの女が駆け寄っていくのが見える。
ヒイロは氷の大地につもる雪を、生まれて初めて踏み締めた。
踏み締める雪。……ここが、地球なのだと、実感する。
足元から込み上がってくる冷ややかな空気に。
吐息が白くて。
なぜか、ずっと昔のことを思い出した。
……瞬きの星だと、誰かが言った。
この星がもしも赤い恒星に近ければ消えぬ火となって、遠ければ永遠の氷となって、命を育むための風が吹かない。
微妙な位置関係の上に成り立っている星。
……またたきのほしだとだれかがいった。
ほんの一瞬。
まばたきの間にもしかしたら消えてしまうかもしれない。
それは青い碧い蒼い、コロニーの展望台からいつも見ていた、風が、大気を循環させる奇跡の星。
コックピットから転がり落ちた躰が冷えていくのをトロワは感じていた。
……コロニーを盾に取られた今、なにを名分に戦えばいいのか……戦っているのか。自分たちが生きるのも死ぬのも、コロニーのためだけなのか……。
「大丈夫か、君っ」
寄ってきたノインにヒイロのための弾の補充を頼んだところ、なんだか怒られてしまって笑いたい気分になった。そういえば彼女に名乗ってすらいなかった自分がいる。
警戒。
すべてにおいて頑なで。
たとえば、カトル・ラバーバ・ウィナーの絶えることのなかった物優しげな微笑みが自分にあれば。
たとえば……。
顔を上げた先に、ヒイロがこちらへ向かってくるのが見えた。コートのポケットに両手を突っ込んで、相変わらずなにを考えているのかわからない顔をして。……ああ、それはたぶん、自分も同じなのだろう……。
一面の白を踏みしめ、歩いてくるヒイロ。
揺れる、黒に似た、ダークブラウンの……。
……黒い髪と、瞳。
トロワは、目を見張った。
思い出したのは、彼、だった。
彼と、ヒイロと。一瞬、姿が重なって見えた。
それは単に、自分に関わった彼ら二人が、同じ東洋系の人間だったからか。
『弱い奴に戦う資格はない』
そう言ったきり、コーヒーの入ったカップを握り締めて口を閉ざしてしまった張五飛。
なぜ、今、思う必要があるのか。
……ああ。
納得したように、トロワは自身の中で頷いた。
そう……。
……たとえば、自分は弱いのだから戦えない、と。そう思うことのできる強さがあれば、良かったのだ……。
……総てが、闇色だと思った。
己の弱さを叱咤するように沈んでいった水底から、鮮やかな青のガンダムは自ら這い上がってきた。
トレーズ・クシュリナーダ抹殺失敗。
トロワにとっては、それだけのことだった。それ以下でも、それ以上でもない、それだけのことだった。
下弦の月が照らす夜。ガンダムから海辺に降り立った彼の白い服が闇に浮かぶのを、静かに波の打ち寄せる砂浜で、トロワは、ただ、見ていた。
海の……潮の香がした。
湿った海風が吹く。
……コロニーでは決して感じることのできなかったそれらをあいつも感じているのだろうか……それとも、それどころではないのだろうか。
黒と白。強と弱。
コントラストの中にある彼を、トロワはただ、見ていた。……なぜだろう、見ていたいと、思ったのだった。
「おい、次期をうかがう気があるのか」
自機を見上げたまま動こうとしない彼にトロワが声をかけたのは、ずいぶん時間が経ってからだった。トロワの声に、深い闇の色をした瞳がゆっくりと振り向く。
振り向く瞳に、トロワは息を呑んだ。
まさか、振り向くとは思わなかった。無視を決め込まれるかと予想していた。なににしろ、振り向いた彼が、真っ直ぐに自分を見るとは、思わなかった。
「…………」
物言わぬ、固く閉ざされた唇。
トロワを見る瞳。
……瞳は……闇色だと思っていた。打ちのめされた、深い闇の中にある色だと思っていた。
なのに、己の弱さを認めた苛立ちをぶつける場所を探すかのように、眼差しに揺るぎはない。
ふと、彼の握り締めた拳に気が付いて、トロワは目をやった。
……ああ。
そうか、と思う。
名前も知らない目の前にいるこいつは、こういう男なのか、と察する。
負けず嫌いの、意地っ張りだ。
その眼差しといい、性格といい、こいつは自分にはないものを持っているのだ。
けれど。……それを、子供だな、などと笑う気にはならなかったし、そういうこと自体考えつきもしなかった。ただただ、こいつはこういう人間なのだ、とトロワは冷静に判断するだけで。
幸か不幸か。
それを羨ましいと思った自分に気が付くことはなかった。
途中ですが終わってます
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