地球の風 ACT2
デュオが、ヒイロとそしてトロワの乗ったトレーラーの残した轍を眺めている。そんなデュオの後ろに立っている自分がいた。
……僕は……。
……デュオはここにヒイロがいてほしいと思っている。僕は……今ここに誰にいてほしいと思っているんだろう。
陽が落ちて、冷めた風の吹くこの場所で。
この眼差しは誰を見つめていたいのか。誰がここにいてくれれば、こんな気持ちを抱えずにすむのか。
そればかりを考えて。
なにを、どこを、誰を……視界に入れていいのかわからなくて、目眩がする……。
誰か、この手を掴んで。
そうして、大丈夫だと言って。
「デュオ……」
自分に背中を向けているデュオは、ヒイロだけを眺めていたいと、偽りなく言うだろう。言いながら、罪のない眼差しで自分に笑いかけるのだろう。
でもその笑みは、ヒイロに向けるものとは違うのだ。
……ヒイロ。
ヒイロ。
ヒイロ!
みんながあの人の名前を呼ぶ。
今は、トロワも、あの人の隣であの人の名前を呼んでいるのだろう………。
冷たい、風が吹く。
目眩がする。
……こんな夢を見るほどに。
なにに、飢えているのか………。
はっと目を覚まして、カトルは枕元に備えてあるスタンドに手を伸ばした。スイッチを入れると明かりは何度か鈍く点滅した後に、灯る。
上半身をなんとか起こして、溜め息した。
頭を抱えようとした両手。指が、微かに震えてうまくいうことを聞かない。
震える……指を眺めて。
カトルは、遣り切れず両手の平の中に顔を埋めた。
……いったい、今の夢のどこからどこまでが本当の夢だったのか。どこからどこまでが本当の夢だと、言い切れるのか……。
カツッ。
小さな音。
カトルは突かれたように顔を上げた。
「いったいどんな夢を見てたんだ?」
少し揶揄するような声に、目を見張る。
「………デュオ……」
スタンドの微かな明かりに、人の姿が浮かんだ。
カトルのベットのすぐ脇。椅子の背もたれを跨いで座っているデュオが、カトルを見ていた。
……デュオ。
夢の、続き……?
「起きちゃったな。オレ、人の寝顔見てるのって好きだったんだけどさ。……変だと思う?」
いたずら坊主が母親に向けるような、伺うように覗き込む仕種。
鎌を置いた死神が、やんちゃな少年に戻る一瞬に、カトルは微笑むことに成功した。ぎこちなかったけれど、暗闇が手助けしてくれる。不自然な部分はすべて、闇がごまかしてくれる。
だから笑える。
……今は。今だけは。
もちろん、夢の続きではない、ここで。
「どうして好きなのか本当のところを聞くまでは、変だと思っても笑えないですよ」
デュオは、ぷ、と笑った。実は変だと思っているような言い方に、気が付かないわけがなかったらしい。
「だってさ、安心だから、だろ?」
「安心、ですか?」
「そう。じゃなけりゃ人は眠れないだろ。なににも怯えなくて、安心して、だから眠れる。部屋に一人きりで、傍に誰もいなくても恐くない」
「それが、あなたの『安心』ですか?」
「さあな。でもここでカトルが寝てるだろ? するとオレも、ここでなら寝てもいいかもって思える」
「……では、デュオ。あなたが今、なににそんなふうに怯えているのか、聞いてもいいですか? どうして、なにかに安心できずに眠れないでいるんですか? 小さな、子供みたいに」
「あいにく、オレはまだ子供なもんでね」
「いいえ、そうじゃなくて。あなたの最大の不安は、今日、取り除かれたはずでしょう?」
「ヒイロか? そうだな……」
デュオは椅子の背もたれを抱えて、思い出すように唸った。自分に黙って行かれてしまったのが、未だ少し悔しいらしい。
カトルは相変わらず微笑むつもりだった。でも、できなかった。
ヒイロ、だと。
即答したデュオ。
そう仕向けたのは確かに自分だけれど。
……デュオは、今、ここにいても、ここにいない人のことだけを考えている。
静かな夜。少しの明かりの中で、広い部屋の中で、手に入れたいものを求めた子供が、二人。
俯いたカトルは、毛布の上で両手を重ねて、握り締めて、込み上がってくる感情を押し止めようとした。
でも、できなかった。
想いは、唇から零れた。
「では……僕の眠りの邪魔をしないでください。あなたに不安はない。ここにいる必要はない。デュオにはデュオの部屋もベットもある」
追い出してしまいたかった。ここに居て欲しくなかった。
今。
デュオの前で、カトルは平常を保てない。それは、無理な話だ。
それを察しているのかいないのか。……いや、恐らく察してなどいないのだろう。
デュオは背もたれの上で組んだ腕に顔を埋め、髪の隙間からカトルを覗いた。
「おまえだって、まだ子供だよな」
「………え?」
顔を上げたカトルに、デュオは表情を変えないまま言った。
「おまえ、オレの名前呼んだぜ」
声は、静かに夜に響いた。
……夢の中ですら、思い通りに、したいことができない自分がいる。
夢の中ですら、常に冷静な眼差しで、自分を見ている自分がいる。
……僕は、僕のやるべきことをやれないなどといわずにやらなければいけない。
そうやって。
追い立てる自分がいる。
想いはこんなに溢れているのに、行き場がない。 ねえ…………。
苦しいよ。
「……僕が、あなたの名前を呼んだ? 初めから、それがおもしろくて僕を見ていたんですか」
ばかにされた。そう思った。気持ちはどんなに押し止めても、カトルの中で膨らんだ。
……悲しかった。
そう、悲しいのだ。
悲しいと思っているのだ、自分は。
バカにされて、なぜ、腹を立てることができないのか。
怒りがあれば、あるいは、もっと楽になれるのに。
「初めは、さ……」
デュオはカトルの悲しみには気がつかない。ただ静かに言葉を紡いだ。
「初め言ってた通りさ、おまえの寝顔見て、オレも安心したかっただけ。ああ、やっとオレも眠れるんだなって。でもカトルが、名前呼ぶから、なにかなって思って」
「……呼んでません」
「でも、たしかに……」
「僕は呼んでない!」
叫んで。
「……そっか、なら別にいいんだけどさ」
カトルは、自分の大声に我に返った。
デュオの口調は、あくまでも物静かで、神妙で。自分の乱れた心より、ずっと穏やかで。
呼んだからいてくれた。それだけなのに。それができる人なのに。
「ごめんなさい。大きな声を、出してしまって」
すぐに謝罪する。デュオはまるで気にしていないというように、くすりと微笑した。
「カトルってさ、謝るのすきなのな」
「そんな……。……いいえ、そうかもしれない。謝ることで、僕は自分の罪から逃れようとしているんです」
「罪って……んな大袈裟な」
カトルがベットから下りて、カーテンとともに窓を放つ。デュオは椅子に座ったまま、カトルを追って視線を巡らせた。
冷たい冷たい風。入り込んで、カトルは深呼吸した。
目が、醒める。
「僕は、デュオを呼んだかもしれない。夢を見たんです。そうして、あなたなら僕を助けてくれると思ったんでしょう」
「助ける? なにから……?」
「僕にもよくわからない。……わからなくて、それ自体から助けてほしかったのかもしれない」
眺める窓の彼方。熱帯の森の向こうは、すぐに砂漠が広がる。
日中はあんなに熱いのに、夜は冷えて。下手をすれば凍えて、命を落とす。
「なあ、カトル」
デュオも立ち上がって、カトルの隣で外に顔を向けた。
「オレさ、呼ばれると実はすっごく嬉しい、って、知ってるか? ずっと一人だった。誰かに呼ばれることなんてなかったからな」
「でも、今はそうじゃない。僕達はこうして集まり始めている」
「ああ。カトルがいる。そして……」
デュオの眼差しは、森を越えて、砂漠も越える。ずっと、遠く。そこにいるはずの人物。
誰か、なんて。一目瞭然で。
けれど、不意にそれはカトルに向けられた。
「ま、オレで役に立つんなら、なんでもやってやるぜ。いつでも呼べばいい」
「優しいんですね」
穏やかに、カトルは告げていた。
それが誰か特定の人物に向けられた優しい、ではないとわかっていても、自分が望む自分だけの優しさではなくても、いいと、告げる。
いいと、告げることができた。
きっと自分は、いつもと同じ優しいといわれる笑顔を顔に乗せているはずだった。それが偽りだと、自分だけが知っている。でも、偽りのはずの笑みはいつのまにか本物になってしまっていて、もう、どうしようもないのかもしれない。
「あなたは、優しい人です」
もう一度言う。デュオはまいった、といいたげにぺんと自分の額を叩いた。
「って、カトルに言われちゃうとなあ」
「真実味がなかったですか?」
「そーじゃなくて、その反対」
「…………はあ」
なんと返事をしたらいいものか。カトルは苦笑で応える。
「……その顔はオレの言うこと信じてないな……」
拗ねてデュオは頬を膨らまし、やがて、ふうと息を吐き出した。
「オレさ『優しい』っていうものは、人それぞれ量が決まってて、それ使い果たしちゃうと、もー、空っぽになっちまうもんだと思ってたんだ」
「……不思議なことを言うんですね」
「まー、いろいろとありましてね……ってか」
風が吹き込む。デュオは寒そうに身を竦めると、今までカトルが使っていた毛布に包まった。
「暖かいな……」
呟くデュオ。確かに寒そうだった。
ただし−皮膚が感じる体感的なものではなく
て、心が感じる、内面の温度。
凍りついたままの、記憶。
「歳も身長も、ぜんぜんちーさかった頃の話だぜ。ちまちまってしててさ、かわいかったんだぜ、オレは。……かわいくないチビなんていないんだけどさあ、特にオレはかわいかったんだぜ、きっと」
思い出を思い出しながら語ろうとするデュオは、いつもと変わらない表情に見えた。もちろん、見えただけ、だということはカトルにはわかっている。
デュオは毛布に顔を埋める。
「かわいかったから、誰も彼もちやほや優しくしてくれたんだろーな。かわいくてただ純粋で、天使みたいに愛らしい子供が、何年か後に死神になるなんて思ってなかったんだ。オレは任された仕事をこなして、誉められると思ってたんだけどな、初めての仕事があっさり成功したときのあいつらの顔……」
「……デュオ……」
「オレはスイーパーグループにいたんだぜ。仕事は、成功して当たり前のはずだったんだ。成功しなけりゃ、ならないはずだったんだ。ああ、そうさ。オレは成功して、認められた。まだこーんなガキの頃に、一人前の仲間入りだ。けど……それ以後もらえなくなった『優しさ』は、オレが大人になったからじゃない。もう尽きちゃったんだな。オレに与えられる分の優しさは尽きちまったんだ。人の優しさなんてものには限りがある。そう、思ったんだ。けど……」
カトルを見たデュオは、いつもと変わらない表情に、さらにいつもと変わらない笑みを乗せた。
なにも、変わらないデュオ……。
「おまえにあって、ちょっと考えが変わったな。『優しさ』は尽きたりしない。……まあ、ってことはあのときのオレはたんに嫌われたか恐れられてかのどっちかってことになるんだけどなあ」
それもなんか嫌だなあ、とくすくす笑う。
カトルは静かに目線を落とした。
風の吹き込む窓にもたれる。
風の声が聞こえる。
育った環境が違う。生まれた環境が違う。カトルとデュオと、どちらがどうとか、そういう問題ではなくて。問題は、それでも今、二人がここにいるということ。
同じガンダムのパイロットとして、ここに、いるということ。
経た道が違うのに、出会えたということ。
風は平等に、二人の間を吹きすぎていく。
「……人を理解するということは、人に優しくすることよりも、ずっと難しいんですよ」
「そーいうもんかな」
「ええ」
静かに頷いて、けれどカトルもくすりと笑った。
「でも、理解できなければ優しくすることもできないですけれどね」
「………なんだかなあ」
にわとりたまご。にわとりと卵とどっちが先か、のような話になって、今度はデュオが苦笑した。同時に大あくびを始める。
心が眠りを要求したのだろう。
たわいのない会話から、少しづつの優しさを得て、安心したのだろう。
「さあて、寝るか」
両手を振り上げて伸びをして、デュオは抱えた毛布をカトルに返した。
カトルは毛布を受け取って、そこに、温もりを感じて。温もりが痛くて、毛布を抱きしめた。
「デュオ」
「あー?」
振り向くデュオに、
「僕は、あなたが好きです」
「……カトル?」
「でも、あなたがあの人を思う好きとは、たぶん違う。それだけです。おやすみなさい」
「カトル……」
「おやすみなさい。眠れるときに眠るべきです。僕も、もう眠りたい」
「あ……、ああ」
閉まった扉を、カトルは眺める。
パタン。と音だけが耳に残った。
「……嘘、です」
呟いて、カトルは今までここにいたデュオの姿を思い浮かべた。思い浮かべた彼は……なぜだろう、笑っていなかった。
おそらく扉の向こうで、デュオは不可思議なカトルの言葉に首を傾げていることだろう。でも、そんなものはすぐに彼の想う人物の姿と入れ代わってしまうのだ。
眠りにつく間際には、誰でも、いつでも傍にいてほしいと願う人を思い浮かべるのだから。だから……。
だから。
「嘘に、決まってる……」
この気持ちはデュオがヒイロを想うのと、なにも変わらない。変わらないからこそ、嘘だと言う必要があった。自分に言い聞かせる必要があった。
こんなにも、想っている。
そして同時に、トロワも想っているのだ自分は。
「……僕は、優しいわけじゃないよ、デュオ。弱いだけだ」
小さな声で、ここにはいなくなった彼に告げて。 後は、眠る努力をするだけだった。
「あなたたちは僕の、この弱さを隠すための偽りの優しさに惑わされないで。そして僕は、自分の弱さを埋めるために優しい人たちを求めるんじゃない。それをするのは弱さを通り越した愚かな人間のすることだ」
……カトルの優しさは、いつも、カトルだけを責める。
アツく熱した砂漠を冷ましてくれる冷たくも優しい風は、まだ、カトルには吹かない。
彼の優しさが彼を追いつめて、いつか、狂うほどに……。
……目眩がする。
……苦しいよ。
……助けて………。
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