地球の風 ACT1


「生きて……たのか」
 そこは熱い土地だった。
 真上から照りつける太陽が容赦なくて、治癒しかけの傷を、じくじくと蝕んでいくようだった。
「生きてたんだな、おまえ」
 声に、ゆっくりとヒイロは顔を上げた。
「デュオ?」
 ぶつかった視線。瞳は信じがたいものを見たという表情を、互いに映しあっていた。



 木陰に腰を下ろし休んでいたヒイロの眼差しはどこか気怠げで、だから陽炎のようにふいに消えてしまうのではないかと、そんな思いが、デュオに息を飲ませた。
「ヒイロ……?」
 確かめるように呼んで、手を伸ばす。伸ばしながら、また、デュオは心のどこかで思っていた。
 ……陽炎。幻。それは、触れられないもの。
 ……触れた途端に消えてしまったら?
 消えてしまって、そしてやはりヒイロはあの自爆で死んでしまったのだと、あらためて思い知ることになってしまったら? それならば、触れないほうがいいのではないか。このまま自分の気の済むまで、この幻を眺めていたほうがいいのではないか……。「……あのさ、消えるときはちゃんと自己申告してくれると嬉しーんだけど」
 肩に触れるか触れないか。デュオは寸前で手を引き、幻かもしれない目の前の彼に告げた。
 ヒイロは自分に近づいては遠ざかっていった手を眺め、しばしあきれたようにデュオも眺めると、吐息した。
「バカか、おまえは」
 伏せた視線は、けれど笑い出したいのをこらえているようにも見えて。
「……ヒイロ?」
「なんだ」
「ヒイロ……?」
「……だから、なんだ」
 何度も何度も自分を呼ぶ声に、何度も何度もヒイロは応えた。
 再び伸びてきたデュオの手を……指を、ヒイロがまた、眺める。まるで壊れ物を扱うようにプルシアンブルーの髪に触れた、体温。
 熱帯の気候が誇らしげに振りかざす灼熱の大気が、その一瞬だけ、他界のものになる。
 二人、だけで。
「よか……った」
 こらえ切れなくて折った膝。デュオは同じ目線の高さになったヒイロの肩先に、静かに顔を埋めた。



『降伏はする。だがガンダムは渡さん』
 ドクターJがそう告げたあのときから、一月と、あとどれくらいの時間が流れたのか。Gパイロットたちは己の無力さに為す術もなく、移り変わっていく地球の季節に身を委ねていた。
 ヒイロ・ユイは死んだのだ、と、誰もが覚悟を決めながら……。
「諦めてたんだぜ……」
「そうだろうな」
「でも、生きてる」
「……ああ」
 会話とともに、時間はゆっくりと、静かに流れていくようだった。
 木の陰で。
「……なあ、ヒイロ」
 熱い風の吹くこの場所で。
「おまえ、俺のこと考えたことある?」
 目は合わせない。デュオはずっと、ヒイロの肩に顔を埋めたまま。
「あるわけ、ないよなあ」
 ヒイロの答えを待たずに、勝手に答えを紡ぎ出す。ヒイロは黙ったままデュオの背中を眺めて。そこに伸ばしかけていた手の平を、握り締めた。
「デュオ……」
「だって、おまえ死に損ないだろ。生きることも考えてない奴が、俺のことなんて考えてるかよってんだ」 
「おれは……」
 握り締めた手の平は、二度と開かないけれど。
「でもいいんだ、もうほんとに、いいんだ、そんなことは」
 デュオはヒイロの手に気がつかないまま。
 いいんだ、と自分に言い聞かせるように、また呟いた。コロニーを盾に取られ、OZに対して手も足も出せなかった。厳重に警戒された情報網に介入できずに、たった一人の生死の確認も取れなかった。
 なにをしたらいいのか分からなかった日々。そう、そんなときもあった。けど。もう、いい。
「だって、おまえはここにいるじゃないか、なあ」
 いたわるように両手で抱きしめて。微かに見開かれたのは、ヒイロの瞳。
 熱いのに。
 抱きしめられて。
 安心している。
 何に? 誰に? 
 答えは、この手の平の中。
 ヒイロは安らぎを与えられた幼児のように、温もりに、目を閉じた。
 ……感じるのは、その温もりだけ……。



 そうしてどのくらい、そうしていたのか。
「暑苦しいな」
 吐き出す息に混じって、ようやく、というようにヒイロがデュオの躰を押し退けた。眼差しはさらに気怠げで、息が荒い。
「ヒイロ? どうした……」
 言いかけて、どうしたじゃねーよ、とデュオは自分に毒突いた。この暑いのにきっちりとボタンをかけた長袖のシャツ。ぐるぐるに巻かれた包帯が透けて見えた。常識で考えれば、あの爆発から一月足らずで出歩くなどということが無茶苦茶なのだ。
「おい、これ、やばいんじゃないのか……?」
「いい、かまうな」
「なにがかまうな、だ、やせ我慢もいい加減にしろよ」
「……いいんだ。ここで待っているように言われた」
「言われたって、誰にだよ」
 ヒイロは応えずに、樹にもたれて。
「おれにはやることがある。おまえも、おまえのやるべきことをしろ」
「やることって……、それがわかんねーからこんなだらだらした毎日送ってんじゃねーか。おまえいったい、誰となにやってんだよ」
「…………」
「はいはい、いつものだんまりね。わかった、わかりました、ってか」
 やれやれと大げさなポーズを決めて、デュオは立ち上がった。ヒイロを手放すことに躊躇いはなかった。むしろ、離れた温もりに大きな喪失感を覚えたのは、ヒイロのほうだった。じくじくと痛みが増して、躰が重くなる。……痛い。
 デュオはすっかりいつものデュオで。
「待ってろよ、今カトル呼んできてやる。あいつのほうが説得が上手そうだ」
「……カトル?」
 痛い。
 躰が悲鳴を上げる。痛みに耐える訓練。そんなものも受けた。けれど、痛みを乗り越えるわけではない。
 呼吸することも辛そうなヒイロの苦痛に急かされて、デュオはもどかしげにヒイロに答えると、
「ああ、カトルだ。オレたちのお仲間だよ。今オレ、世話になってんの。んじゃ、いいな、待ってるんだぞ」
 いうが早いか、踵を返してしまった。
「……デュオ」
 ヒイロが、なぜ呼んだのか。
 わからない。そんなことはヒイロにはわからないけれど。
「いいな、おとなしくしてろよ」
 振り返ったデュオはしつこく言い置く。あんまりしつこくて。デュオは相変わらずで。
 ヒイロはそれに苦笑で応えた。直後、痛みが退いたような感覚……それは気のせいだったのだろうか。
 苦笑という、笑顔。
 それはイエスの返事……少なくとも、デュオにはそう見えた。だからこそ、安心してヒイロをその場に残したのだけれど。
 残されて、一人になったヒイロに、熱い風が吹く。
 夢、だと。
 今起こったことは夢だというように、余韻を消し去るように、熱い風が吹いて。
「気分はどうだ。優れないようなら、出発は明日にするが」
 背後から現れたトロワに、ヒイロは首を横に振った。
「いや、先を急ごう」
「……そうか」
 トロワはヒイロに手を貸しながら、ヒイロがいつまでも見ている視線の先を眺めた。……誰もいない。なにもない。だが、ヒイロは気分が良くなったという。
「それは先を急ぎたいという焦りからか、それともここを一刻も早く立ち去りたいからか。いや、その逆か」
 独語というにはあんまりはっきりしたそれにヒイロは顔を上げたが、トロワは唇の端で笑っただけだった。
「食用調達のついでに道を聞いてきた。目的地までそれほどないようだ」
「すまない、なにもかもトロワに頼っているな」
「気にするな、俺には他にやることがない」
「みんな、同じことをいう」
「それは誰のことだ?」
「……いや。なんでもない」
 思い出したように目を細めたヒイロを、トロワはただ見ていた。ヒイロがその眼差しの奥で誰の姿を思ってみているのかを想像することは、トロワには不可能だった。そして想像できたとしても、それを口に出すことはまったく愚かなことのように思えたのだ。
 二人を乗せたトレーラーは、その地にタイヤの跡だけを残し、去っていった。



 カトルとともに戻ってきたデュオは、ヒイロの姿が見つけられずに実際地団太を踏んでいた。
「ちきしょ、あのやろーどっかの誰かのいうことは聞けても俺のいうことはきけねーのかよ」
「どこかの誰か?」
 どーしても運転は俺がするといって聞かなかったデュオを立てて、おとなしく助手席に座っていたカトルは辺りを見回した。人の気配はない。
「たぶん、自爆したあいつを連れてった奴だな」
「ああ、じゃあトロワですね」
「トロワ? そういう名前なのか」
「ええ、彼なら安心ですよ。少し無口だけど、いい人だ」
「っかーっっっ」
 こりゃまいった、とデュオは頭を抱えて、車から出てきたカトルの肩をぽんと叩いた。
「カトルにかかっちゃあ、誰でもいい人だよなあ。ああ、ああ、ヒイロ君もそりゃあ無口で無愛想だけどいい人かも、だぜ、まったくよお」
 ぺらぺらと口を動かして、それでもまだ言い足りないとさらに口を開こうとする。カトルはトレーラーのタイヤの跡を追うように見渡した。
「そんなに心配しなくても、ちゃんといい人ですよ」
「あー? トロワか? それはもうどうでもいいけどよ」
「いいえ、ヒイロです」
「……そりゃあ……ないと思うぜ、まかり間違ってもヒイロがいい人っつーのは……」
 今までの悪口雑言思い出して、デュオは唸った。自分で言うのと人から言われるのとではこうもニュアンスが違うものだろうか? いや、でもやっぱりカトルのはなにか間違ってる気がする……。
 唸り続けるデュオ。カトルはくすりと微笑した。
「いい人ですよ。あなたがそれほど気にかけられる人だから。そして、あれだけ潔くコロニーのためにボタンを押せた人だから。見習わなければならなかった僕達は、ここであの人の心配をすることしかできません」
「カトル……」
「そして、あなたも良い人ですよ、デュオ」
「……んな、付け足したみたいに言わなくていいぜ」
 かーえろ帰ろ、とデュオは車に乗り込んで。
 遠くを見つめる、その眼差し。
 デュオはヒイロを……ここにはいない、ここにいたはずのヒイロを……見ている。
 そしてカトルは。
「どうしてかな。僕はあの人がここにいなくて、こんなにほっとしている。ほっとしているのに、あなたがあの人のことを考えていると思うと、心が痛むんです。そしてここには、トロワもいない……」
 ひとりごと。そう、これは独り言。
「カトル?」
 デュオに、カトルは何事もなかったかのように振り向いて。
「帰りましょう。そして僕達にできることを探しましょう」
「ああ、そうこなくっちゃ」
 吐息とともに吐き出して、デュオは車のエンジンをかけた。



 生きている。
 それだけでいい。
 それだけがあれば、この時代を越えていける。
 とりあえず、それだけあれば……。



 トロワの運転するトレーラー。ヒイロは流れていく景色の先をずっと見ていた。
 決して振り向かずに、振り向いた先に誰がいるのか、なんてことは、考えずに……。



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