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clinometer





 一人で戦ってきたことに疑問など感じたことはなかった。
途は、開けていた。未来は、奴らと共に行く先にある。
でも、その先は……?



「あなたはあなたの正義のために、ピースミリオンを利用すればいいのよ。これでもずいぶん、いい話を提供したと思っているんだけど」
 どうしたものかしら? 元地球圏統一連合軍の曹長、サリィ・ポォは知的な瞳に、今は少し優しさを含ませて彼に問いかける。……彼はその瞳に懐柔されたのか、逆らう気をなくしたのか。
「……好意には応じる」
 張五飛。白のチャイナ服に身を包んだ彼は、黒の瞳を静かに伏せた。
「だが、取り引きには応じない」
「五飛……」
 サリィは困ったように五飛を眺めたけれど。……知ったこっちゃない。五飛は肘をついて横を向いた。愛機ナタクと共に窮地を救ってもらったことには感謝するが、助けてくれと頼んだわけではない。恩を押しつけられる筋合いはなかった。
「やめておけ、こいつにはこいつのやり方がある」
 仲間になれという申し出を断った五飛を説得しようとするサリィに、淡々と意見するのはヒイロ・ユイ。五飛はそのせりふに対して口をはさむことはしなかった。なにより、もっともそのままなご意見だった。……ではおまえ達は仲間になったのか。などということも、どうでもいいことだった。自分以外の奴らがなにをしようと、関係がない。五飛には五飛の正義があるだけだった。
 横を向いたきり、五飛はうんともすんとも言わなくなった。ヒイロもまるで喋らない。ピースミリオンに向かうシャトルのコックピットの中、三人きりで、シーンと静かで。「よう、お互い生きてたか」とか「その後どうしてた」とか「そう言えばこの間はマジにやばいことがあってな……」とか、シャレにならないような会話を始めるわけでなく。とにかく無言で。平均年齢十六、三三三……の若者の集っている場所とは思えず、サリィはやれやれと吐息した。……不健康だ……。
 ところで、不健康と言えば……。
 サリィはふと立ち上がると、五飛の黒艶な頭をぽんと撫でた。
「…………」
 なんだ? と五飛が無言で問う。
「あなたのナタクがあれだけの損傷を受けていたのよ。あなたに怪我はないかしらと思ったの」
「ない」
 無下に根拠もなく言い張られて、サリィはふふんと眉を上げた。
「あら、この点に関してはあなた達は信用できないわ。なにしろ、あなたたちには痛覚がないんじゃないかしらって、たまに思うものね」
 言いながら、ちらりとヒイロを見やった。……冗談ではなく、真剣にサリィはそう思っていた。この少年たちはいつだって平然としていて、でもそれは彼女にとっては尊敬に値するものではなくて。痛いなら痛いと泣き喚いてくれたほうが、こちらにも対処のしようがあるというものだった。
「ないといったら、ない」
 いつまでも頭の上に乗っかっている手の平が気になって、五飛はそれをはねのけた。……強くはたかれた自分の手を眺めているサリィを、五飛が眺める。少しは悪いことをしたと思っているのか。
 サリィが五飛の視線に気になって見向くと、一瞬見合って、五飛は戸惑ったようにまた、横を向いてしまった。
「……まあ、いいわ。でも念のために、後できっちりメディカルチェックアップしておいてね」
 仕返しでもするように、サリィは再び五飛の頭を撫でてみた。今度は払われることはなかったけれど、五飛は必死でそうしたいのを我慢している様子で、サリィは噴き出しそうになるのを我慢しなければならなかった。



 たいして価値のなさそうな一枚の紙切れを突きつけられて、サリィは少し驚いたように目を見張った。
「これで文句はないな」
 ふふんどうだ。とでも言いたげな五飛からその紙切れを受け取る。メディカルチェックアップの結果らしいそれには「異常無し」の文字が、当然のような顔をして並んでいた。
「ま、文句はないわね。上等上等」
 少し残念げに呟かれて、偶然出会った殺風景な通路の途中、五飛はサリィを見上げた。
「なにか言いたいことがありそうだな」
「骨の一つでも折れてたら、ゆっくり休む口実ができたのにな、と思ったのよ」
「そんな暇はない」
「それもそうね」
 ひょいとサリィは肩を竦めた。
「でも、あなたの愛機は動かないし、しばらくあなたの出番はないわ。ピースミリオンに着くまで、ゆっくりお休みなさい。それくらいの暇はあるわよ」
 もう一度診断書を眺める。
「もうあなたは、どれくらいゆっくりしていないのかしら?」
 わざわざ目線の高さを彼に合わせてなだめる、なんてことはしなかった。そんな必要はない。対等の立場で、言いたいことを理解してくれると信じている。
 たった一人でホワイトファングに立ち向かい続けていた彼を、戦闘不能になった彼を、もしも見つけることができなかったら、彼はいったいどうしていたのか。……死を恐れない彼ら。
 どうしていたのか……なんて。あまり考えたくはなかった。せっかく見つけた戦士は、ヒイロも、五飛も、ここにいる。ピースミリオンにはすでに三人、デュオ・マックスウェル、トロワ・バートン、カトル・ラバーバ・ウィナー。みんな、揃っている。今は、それでよしとしよう。これからのことは、これから考えればいい。
 ……今の自分の役目は、ヒイロと五飛の二人をガンダムパイロットの仲間と合流させることだけだった。とりあえず、それくらいの役目でしかない。
「わたしにはわたしの戦いがあるわ。でもその多くをあなた達の肩に期待してしまっていることを、責めないでね。そうして、そう思っていることを忘れないで。あなたたちは、間違ってはいないのだから」
 嫣然と微笑むサリィの赤い唇が印象的だった。赤に、しばらく目を奪われたけれど。
『間違っていないわ。』
 言葉が脳裏を突いて、
「……わかった」
 五飛は素直に返事をする。
 満足したように再びサリィが微笑した。赤に縁取られた唇の端が、艶やかに笑んで。
「じゃあ、ピースミリオンに到着するころになったら知らせるわ」
 それまで、おやすみなさい。を言外に、サリィは片手をあげて軽く挨拶すると、五飛の横を過ぎていった。五飛はつられるようにサリィの背中を見送る。
 ……目蓋の裏を横切っていく赤は、ゼロシステムの見せた未来への途か、それとも、今まで龍の通ってきた途に転がる死体の流す血の色か、それとも……。
 五飛は返してもらった診断書を丸めてポケットに突っ込み、ゆっくりと歩き出す。部屋にむかって、少し、眠ることに決めた。



 ……とりあえず、叩いてみた。それで駄目なら殴ってみる。
 ……それでも駄目なら……ここを使うのは、諦める……。



 軽い音がして扉が開くと、ガンダム01のパイロットがシャワーを浴びていた。……当然だろう。ここはヒイロの部屋でヒイロの部屋の中のバスルームである。
「どうした」
 無言の侵入者に対して、言葉尻を疑問形にするでなく、動揺をした様子もないヒイロが問いかける。隅に脱ぎ捨ててある衣服と共に置いた銃を構えなかったのは、その侵入者をはなから敵とみなさなかったからか。その余裕がなかったからか……などということはヒイロにはない、だろう、たぶん……。
「壊れた」
 全身白チャイナの侵入者が、ヒイロと比べてみてたいして代わり映えのしない表情で答えた。その一言で諒解したのか、ヒイロは「そうか」と頷く。
 白チャイナ……別名張五飛くんは「謝謝……」となにやら彼の民族のみに共通する言葉で礼を述べると、バスルームの扉を閉めた。
 以上の、
『どうした』
『壊れた』
『……そうか』
『謝謝……』
 無表情の彼らによって交わされた謎の会話を常識人の方々に解かるように説明すると、以下のようになる。
 シャワータイムに突然現れた知人に、当然疑問を投げかけたヒイロ。
『どうした?』
 五飛はサリィに言われた通りに一眠りする前にさっぱりしたかった。が、いざそうしようとしたら、自分の部屋に備え付けられていたシャワーが、
『壊れていた』
 水どころか蛇口をひねっても(蛇口……?)なにも出てこない。叩いても殴ってみてもうんともすんとも作動しない、ので、おまえの部屋のを使わせてくれ。
『……そうか』
 それは災難だな。もうすぐ終わるから待っていろ。
『ああ、すまないな』
 ……と。いうことらしい。
 まあその……彼らの会話は奥が深いぞ……ということで。あー。えーと……。
 だからとにかく……。
 五飛は閉まったバスルームの扉を、なんとはなく眺めていた。どうも先程から、ちらちらと、赤が、行き来していて。頭の中がはっきりしない。シャワーを浴びたかったのは、その赤を、洗い流してしまいたかったからかもしれなかった。そうして、眠りたかった。赤ではなく、黒の闇の中で、泥のように眠りたかった。
 ……疲れている、のかもしれない。認めたくはなかったし、五飛自信、認める気はないのだけれど。ずっと奥のほうでは、きちんとわかっているから。そうして、サリィに言われたように、ここにいる間だけ眠れることを、知っているから。
 なのに……。
 目を閉じるとほら。また、赤。あか。赤。……苛々する。苛々して、なにかを引き裂いてやりたい衝動にかられる。今まで押さえつけていたもの全て、ぶちまけてしまいたくなる。粉々に、その形がなくなるまで。そうしたら、ゆっくりと眠りに着くことが、できるだろうか。
『ゼロに、おもしろいものを見せてもらった』
 それからだ。
 ゼロに乗った。
 途を見つけた。
 なのに、赤に、目が回る。
 迷っているのか? なにに? 違う。迷いなどない。途は正しい。
 では、なんの赤だ。
 ……バスルームを隔てていた扉が開いた。上気した肌に、ろくに躰が渇きもしないうちに服を着たヒイロと、同じ視線の高さで、目が合った。
 赤が……。
 ぐるぐる回った。
 ただ、なにかを引き裂きたかった。紅潮した目の前の肌を、引き寄せて。
 ……目が回る。
 寄せた唇。
 熱さに、口接けた。



 バスルームの中に転がり込んだ。
 反動で開いた蛇口(蛇口……? ……もっとなにかほかの言い方が……ま、いいか)から、通常の温度よりも少し高めに設定された湯が、溢れ出た。熱湯だった。
 服を着たまま、二人して頭から浴びた。でも、熱さでも、目は覚めなかった。赤い泥の中、這い上がる気力がなかった。
 今だけ。
 気怠さは、今、だけ……。



 狭いその中で、抵抗の手段がないわけではなかった。ただ、突然押し倒されて、一瞬状況の判断が遅れた。ヒイロは熱い雫をかぶりながら、五飛を見据えていた。
 正気に見えない五飛の名を呼ぼうとしたけれど、押しつけられる唇に塞がったそこからは、声が出ない。仕方なく……というか当然の権利を持ってして、ヒイロは五飛の無防備な脇腹に拳を叩き付けた。
 唇が離れて、痛みに鈍く咳き込んだ五飛の横っ面。すかさず目一杯殴った。弾みで、五飛は背中を空のバスタブに強かぶつける。
 嫌な音がして、眉をひそめたのはヒイロ。それでも大きく咳き込む五飛には同情の目もくれずに、感触の残る唇を手の甲で拭った。
 脇腹を抱えたままうずくまる五飛を横目に、バスルームを出ていく。シャワーからは熱湯が流れ続け、五飛の髪と服とを濡らしていく。ヒイロもずぶ濡れだった。……少し気分が悪い。湯にあたったか……。
 ヒイロはバスルームの出入り口に落ちていたバスタオルを拾い上げた。先程自分が使ったもので湿っている。まあ、いい。それを座り込んだままの五飛に投げつける。
「なにを血迷った」
 聞くけれど、五飛は答えない。バスタオルを頭から被ったまま、また濡れていく。しばらくヒイロは返事を待っていたけれど、どうにも返ってきそうになかったので、もう放っておくことにした。吐息と共に背を向ける。その足首を、掴まれた。
 不意だった。バランスを崩して倒れ込んだところを、また、引き摺り込まれて。ふりだし。シャワーの下。自分がしたのと同じことを五飛に返され、今度はヒイロが腹を抱え込むことになった。
「なにが……したい……」
 ヒイロが問う。喧嘩ではなく武術に持ち込まれれば勝てる相手ではない、ような気がした。が、伸びてきた手をなんとかはねのけ、近づいてくる顔に唾を吐く。
 五飛はまるでかまわなかった。かまわないうちに、それはシャワーが流してしまう。
「五飛……」
 呟きかけて、ヒイロは喉を詰まらせた。口元を押さえる。殴られたショックで、込み上がってきた嘔吐感。
 五飛はなににもかまわなかった。気分悪げに俯くヒイロの髪を掴みあげて、露になった躰に、たやすげに、膝で蹴りつける。胃が締め付けられて。無理にこらえる気もなく、ヒイロは消化し切れていない胃の内容物を吐き出した。



 五飛もヒイロも、流れ出てくる熱湯を止めようとはしなかった。
 吐瀉物はやがてきれいに洗い流された。……流されていく様を、五飛は感情もなく眺めていた。
 ヒイロは力尽きたように……というか諦めたようにその場に崩れ込む。五飛も一緒になってかがみ込んだ。
「疲れ、たのか?」
「……ああ」
 もうなんでもいいようにヒイロは答えた。思えば、どうしてこんなことになっているのか。考えようと思ったけれど、熱くて。頭が回らない。
 気を失うように瞳を閉じたヒイロを、現身に戻すように五飛が呼ぶけれど。
「ヒイロ……?」
 ヒイロはうっすらと目蓋を持ち上げただけだった。 
「疲れたのか……?」
 五飛はもう一度聞く。おまえは、なにに疲れたのか、と。そして、自分に問う。おまえは、なにに疲れているのか、と。
『ゆっくり、おやすみなさい』
 ……フラッシュバック……。言葉を紡ぐ、赤い唇。……幻想のように……。眠りたかった。……眠れないけれど。
 五飛の目の前。眠りに着こうとする、ヒイロ。
「おまえは、眠れるのか?」
 戦いの中で。それだけに明け暮れていく中で。
 ヒイロは目を閉じたまま……。熱さに喘ぐように酸素を求めて。求められるままに、五飛は再び唇を重ねた。
「五飛。なにが……あった」
 執拗に重ねられる吐息の合間。
「なにもない」
 五飛は、嘘を言う。嘘を訂正しないまま、五飛はヒイロの躰に手をかけた。ウエストからたくし上げたシャツの下。すっかり火照った肌。……赤くて……。
 また、目が回る。
 あか。
 ……思い出したくなかったのに、思い出す。
 赤。
 熱。
 炎。
 一瞬で、コロニーを包み込んだ、爆風。
 ……ロン老師……。
 託された、血筋と、誇り。たった独り残されて。
 一人で戦うことに抵抗はないけれど。
 独りだと。
 だからこそ戦い続けなければならないのだと。
 目の前で、自ら火を放ったコロニーの、赤。
 そして、ゼロシステム。
 未来に見えたものは、OZがひとまとめで呼ぶところの他のガンダムのパイロットたちと同じだけれど。
 想いは、その先。その先を想うことで、壊れ始めた。斜めに、均衡を崩した。
 ……その先は?
 その先は、どこに在る?
 自分は、どこに帰ればいい?
 想いは、見えない未来の不安を絡めて廻るだけで。 苛々する。
「……邪魔だ」
 八つ当たるように、やっと五飛はシャワーを止めた。と思ったら、なにを間違えたのか一転して冷水が溢れてきた。
 びくりと目を開けたのはヒイロ。……なんだか、もしかしたらそうかな、と思っていた事態に突入していて、脱がせかけられていたシャツを元に戻す。
「まだ、気は済まないのか」
「済むと思うのか?」
 なにもかもに、気が済まない。特に、熱い躰が。想いとはまるで別のところで。叫びを始めていて。
「ヒイロ、おまえも同じだ」
 耳元で囁く。頭は冷めても、躰の熱は、下がらない。湯の熱さに酔っているうちに、躰はすっかりできあがっていて。力づくで押さえつけられた狭いバスルームの中、下肢からなぞり上げられて、
「……っ」
 喘いだ自分に、ヒイロは驚いた。膝から力が抜けて、崩れそうになった躰を五飛に支えられる。ほらみろ。五飛の瞳が語ったようだった。
「……誰のせいだ」
 恨めしげにヒイロは睨みつけたけれど、五飛は唇の端で笑っただけだった。
「責任はとる」
 男の宿命だと思って諦めるんだな。そう言って、さらに笑うつもりだった。なのに。……零れた。
 零れ落ちたそれに目を見張ったのは、二人同時だった。……ただの水滴かと思ったのに。涙、だった。
「五飛……?」
「……なんでも、ない」
 悲しくもないのに次々に溢れてくるそれに、五飛は戸惑うだけだった。
「なにがあった?」
「なにもない」
 同じ受け答え。その嘘を見抜くだけの余裕が、今のヒイロにはあった。
 ……OZの支配を拒み、自爆したコロニーがあった。理由は、それか? ……が、非常に申し訳ないが。
「生憎、慰め方など知らないな」
 少し、意地悪く喋る唇。眺めて、五飛は笑うことができた。
「赤くないな、おまえは」
 なんのことだ? 問い返そうとヒイロの口が開きかける。……開きかけただけだった。
 近付いた吐息が、それを塞いだ。



 ……濡れた肌に張り付くシャツが、邪魔だった。濡れた肌に張り付く髪の毛が、邪魔だった。かきあげて覗き込んだプルシアンブルー双眸。そのシーンでもヒイロの瞳は活きていて、真っ直ぐに視線を返してきて、挑まれて、五飛はおもしろそうに自らの瞳を細めた。
 絡んでいた唇が、何度目かで離れていく。惜しむように。そこから遠ざかって行く。黒の視線は、躊躇わずに落ちていった。
 ……途中、黒の瞳がなにかを見つけて瞬きする。目の前。日に焼けた肌にしがみつく水滴を飲み込んだ。……そう言えば、喉がひどく渇いていて……なのに、飲み込もうとした喉を、締められた。
 ヒイロの手の平が、五飛の喉を締める。……別に、驚きもせずに五飛はヒイロを見上げた。その表情が珍しく笑んでいるように見えたので、五飛も同じ表情を返した。
 水滴は、締められた咽喉で留まったまま……。喉が、渇いていた……。
 詰まった喉は、酸素も送り込まない。ヒイロも五飛も、その手の平の下でずくずくと血を流す脈の音だけを聞いていた。……聞こえたわけじゃない。聞こえるような、気がしていた。
 どれくらい、そうしていたのか。苦しさに足掻く代わりに、五飛は目蓋を下ろした。見えなくなった黒の眼差し。ヒイロは手を緩めた。五飛が、その手を掴み上げた。 掴み上げた腕を、浴室の濡れて冷えた壁に押しつけて。視線がぶつかる。顔を埋めた首筋。逃げるように退いたヒイロの耳朶に噛み付いた。
 痛みに……ヒイロは声を漏らす代わりに舌打ちした。
 ……ざわざわと、止められないまま、シャワーから水が流れっぱなしで。
「諦めろと言ったはずだ」
「………」
 もしかしなくてこの後に及んで諦めていなかったらしいヒイロは、無言のまま目を閉じた。……どうやらようやく、諦めたらしい。



 赤い泥の中から這い上がれたのだろうか……なんて、五飛にはもうどうでもいいことだった。はっきりしていることは、赤でも泥でもなくて、ずぶ濡れの中にいるということ。
 ずぶ濡れの中で、小犬がじゃれあうように、戯れに時を使った。
 かすれた息を吐き出して、堕ちていく感覚に、二人して、互いの肌にしがみついた。
「……やめ…っ」
 声が、形にならなくて。やめろ。ヒイロの声を、五飛は聞き入れない。聞こえなかったわけじゃない。聞く気など、初めからなかった。手合わせをしたことはなかったけれど、この男を押さえ込む機会もそうそうない気がして。
 ……いまさら、こちらも止まりはしないのだ。
「諦めろ……」
 声と共に、五飛はヒイロの中へ、入り込んだ。
 ずるずると狭いそこをかきわけて、体温に似た熱さの中に沈み込んでいく。
「………っ」
 喘いだのは二人同時。
 無理に押し込んだ。
 無理矢理押し込まれた。
「…五飛……っ」
 耐えられずに声を上げるより、相手の名を呼ぶほうが容易かった。……ベットの上ではなくて、冷たい壁。押さえつけられて、手に、掴むものがなくて、空を掻くヒイロの手を、五飛が掴んだ。
 指が、人のものではないように纏わりあって。
 痛み……。
 突き上げられて。
 ヒイロは瞳をひそめた。
 ん………っ、と飲み込んで。
 鈍い痛みが、経験したことのない快を伴う疼きに変わるのを感じながら。
 また、五飛の名を呼んだ。呼ぶと、
「どうした……?」
 密やかに、微かな声が余裕もなく返ってきて。
 ……どうしたもこうしたもない。ヒイロは互いに握り締めていた手の平。爪を立てて抵抗する。……ささやかなものだった。さらに体重をかけられて、あっけなく降参することになる。
「……今、だけだ……」
 どちらの言葉だったのか。……どちらでもいい。そこで、切れた。
 後は、もう、開いた唇を無理に閉じたりはしなかった。息も声も、躊躇わずに零れていく。
 波のような意識の中で、どちらともなく、最後の悲鳴を上げた。



「気は、済んだか?」
 投げつけられたタオルに、五飛は気怠げに顔を上げた。……覚えているのは、そこまでだった。
 頭の中。
 今はなにも考えられない。想いは、傾いてしまって、傾きすぎてしまって、そこからすっかり流れ落ちてしまったのかもしれなかった。
 迷いは、熱と共に、弾けてしまったのだろうか。まあ……どうでもいい…………。
 個人的な快楽に疲れを自覚して、五飛は躰を横たえた。
 そうして……。
 どれくらい眠ったのか。
 目覚めたとき、五飛は熟睡していた自分に少し驚いた。
 コロニーの爆発の光景を目の当りにしてから、初めて「眠った」気がしていた。頭の中がすっきりしていて、目蓋の裏をちらつく赤の姿も見えない。
 コックピットに戻ったとき、モニターにはピースミリオンと呼ばれる翼を広げた鳥のような船が映し出されていた。サリィが、待ちかねていたように五飛に振り返った。
「よく眠れたみたいね」
 にこやかに。若いわりには母親のように世話を焼く、と思うとなんだかおかしかった。おかしかったが、かと言って笑顔で答える、なんてことはもちろんなくて。
「もう、着くのか?」
「ええ、やっとあなたのナタクの修理を始められるわよ」
 ヒイロも何事もなかったように椅子に座り込んでモニターを眺めている。
「忙しくなるわ。覚悟しておいてちょうだいね」
「了解した」
「望むところだ」
 二人、二様に返事をして。
「頼もしいわね」
 高く足を組んで微笑むサリィの唇をすでに気にも止めていないことに、五飛は気が付いていない。
 ……赤。
 五飛にとって、それは現実が見せた悪夢。大きなものを失った。失ったものにはその場で気が付くけれど、それで得たものに気が付くには、時間がかかるから。
 正義はおれが決める。
 ……刻みつけられた言葉。
 では、未来も。まだ見ぬ未来も、おれが決める。



 ピースミリオンに降り立った五飛は凛然と、同志である彼らに右手を差し出し、握手を交わした。
 終戦よりも、その先の生き方よりも、さらに厳しい現実が待ち受けていることを、彼は、まだ、知らない。



おわり



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