のぞみ
AC196年12月24日
X―18999コロニー訪問中のリリーナ・ドーリアン外務次官、失踪。
この事件はすぐに周知のこととなる。……が、その前夜から当日早朝まで彼女の行方が知れなかった、ということについては、関係者のみの記憶に留まることになる。
24日 AM0:22
目隠しを外されて、リリーナは部屋の明かりに何度か瞬きした。ゆっくりと辺りを見回す。どこかのアパートの一室のようだ。
手入れはよく行き届いている。けれど壁を飾る絵画も、空間を彩る調度品もない。家具は最低限に必要だと思えるものしか見当たらず、やたら広く見える空間に明かりだけがこうこうと灯る部屋だった。
「ここは、あなたの部屋?」
問いかけるが、リリーナをこの部屋まで連れてきた誘拐犯は沈黙したまま、二つほどある窓のカーテンを閉めている。
「ヒイロ……?」
これが誘拐犯の……彼の名前。
名前を呼ばれて、ヒイロはやっと振り向く。彼にしてはやけに鈍い動作だった。
「どうした」
彼が、問う。問いかけに、リリーナは驚いたように一瞬見開いた瞳を、静かに伏せた。
欲しかったのはそんな言葉ではない、では自分はどんな言葉が欲しかったのか。
ただ、たわいのない質問に、たわいなく応えてほしかっただけなのだ。
「お水を、一杯、もらえますか?」
それだけをやっと言った。ヒイロはわかったと頷くと、奥にあるキッチンへと入っていった。
蛇口をひねると、水がグラスへと流れ込む音がする。
それだけ。
今、この部屋には、その音しかない。
差し出されたグラスをリリーナが受け取る。……受け取ったはずだった。指が触れて、リリーナは手を退いていた。
宙に置き去りにされたグラスが空間を滑り落ちて、フローリングに、弾けて割れた。
「……私……」
リリーナは自分の手を見つめた。
白い手が震える。
ヒイロの指が伸びてきて、リリーナはまた、手を退いた。
逃げていくだけの手をヒイロは強引に掴むと、その手の平に、自分の唇を押し当てた。
「後悔なら、もっと後にしろ」
「後悔? ……いいえ」
「ではなにに震えている」
「……ここに、あなたと私がいるという、現実に」
ここにいる。
明るい真夜中の部屋の中に、たった二人でいる。
夢の中ではない、この、部屋の中に。
23日 PM10:35
「今日の予定は、以上ですね?」
確認に秘書官が頷くのを見ると、大きく伸びをしたくなるような気分になった。ホテルのロビーを抜けたリリーナは、少し早いけれどと母からもらったばかりのクリスマスプレゼントの腕時計を覗き込む。気のせいか肩を竦めた。
会議の後に用意されている会食というつきあいが嫌いなわけではなかった。が、正直、こんな時間まで食べたり飲んだりするのはどうかと思うのだ。これでも健康やら美容やら体重やらを気にする十六歳なのである。
帰ったらまず熱いシャワーを浴びて、それから明日のコロニー訪問のための書類の整理をして、そうしてなるべく早く寝よう。
そんなことを思っていたときだった。
会場にされていたホテルの玄関を出て、すぐそこに止めてある車に乗るまでの、たった数メートルの間のことだった。
偶然は起こってしまった。
彼を、見つけたのだ。
ネオンに照らされた街の雑踏の中で、彼も、リリーナに気が付く。
目が合ったのは同時だった。
リリーナは、驚きに、彼の名前を呟くこともできなかった。
立ち止まるより先に駆け出していた。
「リリーナ様!?」
自分を呼び止めようとする秘書官の声を、リリーナは、無視した。
……隠されてしまえばいいと。
彼の腕の中にいる自分は、彼以外のすべてのものから隠されてしまえばいいと、ふと思ったのは、いつだったのか。
『彼を私たちと同じ組織の一員としてあなたの傍に置くことは、簡単なことですが?』
レディ・アンに、そんなふうに言われて、
『彼には彼のやるべきことがあるのです。私はそれを邪魔したくはありません』
なんて、口で言うことは簡単だった。
『あなたはしっかりしているのね。でも、あまり窮屈にはならないでちょうだい』
そう言うサリィや、同じことを言いたそうにしているノインに、そんなことはない大丈夫だ、と笑って答えることも自然にできた。
そう、戦争は終わり、彼は自分の生き方を探しはじめた。その邪魔をしたくない。そう思う気持ちに、偽りなどなかった。
なのに、地球とコロニーを行ったり来たりで、朝も昼も夜も、ずっと人に囲まれて過ごしているとき、ふと、思うことがある。
どうして、自分を囲む人々の中に彼はいないのか、と。思ってしまうことがある。
どの星にもどの宇宙にも人々は溢れかえっている。
こんなに人はいるのに、自分の傍に、彼だけがいない。
ここから見えない。手に、届かない。
だったら、人々すべて、消えてしまえばいい。
彼だけを残して消えてしまえばいい。
たとえ自分も消えてしまうことになっても、消滅する直前に、私はあなたの居場所を確認することができる。
それで十分だと思える自分が、いる。
彼以外のものはいらないと、一瞬でも考える自分がいる。
24日 AM0:45
ヒイロはリリーナの手を離さない。そのまま、傍のベットに腰を下ろすよう、促した。
「……ヒイロ」
囁くような声に、ヒイロは眼差しを上げた。
なんだ? と眼差しだけで問うてくる。リリーナは小さく首を横に振った。
「夢の中にいるのではないあなたを、呼んでみたかっただけ」
「……夢?」
「ええ。子供のようだと、笑うかしら」
あなたは私の夢を見たりするの? とリリーナは冗談めかして問いかけ、微笑む。
ヒイロは、表情を変えない。
「おれは、夢を見ない」
「……そう」
それでもいいわ、そう言いかけるのを、ヒイロに再び手の平に口接けられて、さえぎられた。
「おまえは、おれのものではないからな」
今度はリリーナが眼差しを上げる番だった。
「では。私は、誰のもの?」
「おまえは、平和を望む、すべての人のもの」
リリーナの手が、また小さく震えた。
「なにを恐れている」
「いいえ、なにも」
リリーナは、指先に触れているヒイロの体温を感じながら、何度も首を振った。
……どうして、なにに自分は震えているのか。
ヒイロに? 違う。
それは、自分自身に。
ヒイロはガンダムを下り、平和を自分にに引き渡した。 では、引き渡された自分は、彼の思いを裏切ってはいないだろうか。自分は彼の理想とする世界を、確実に築いていけているのだろうか。
私は、彼の望む私でいるのだろうか。
それを考えると、ひどく、恐かったのだ。こんなところに来てしまった自分は、もしかしたら、自惚れていたのではないか、と。
「それでは……あなたは、誰のもの?」
問うと、ヒイロは微笑んだようだった。眼差しに優しさが落ちる。伸ばした指でリリーナの髪を梳く。
リリーナを覗き込むように傾げた首が、ヒイロにとってすべての答えのようだった。
「おまえのものだ」
少し体重をかけると、ベットは簡単にきしむ悲鳴を上げた。影が落ちて、重なったのは眼差しと、唇。
リリーナの震えは、しだいに治まっていく。
23日 PM10:58
信号が赤に変わって、ブレーキを踏んだヒイロは助手席に座っているリリーナを眺めた。
目隠しをしたリリーナは、まっすぐ前を向いていた。
『これで目隠しをしてください』
車に乗るときにリリーナが言ったことだった。襟元に結んでいたスカーフをほどいて差し出すのを、ヒイロは黙って受け取った。
『自分の居場所がわからなければ、ノインさんたちに連絡を取れないでしょう?』
だからあなたに縛ってもらわなければ意味がないわね、と柔らかく瞳を細めた。
そんな彼女を抱きしめたいと思う。反面で、鈍いなにかが想いの邪魔をする。それは、いつものことだった。
なにも特別でないあの場所でリリーナを見つけた。
ヒイロの足は、止まった。
ヒイロはリリーナの居場所を、常に把握していた。けれどそれは、今や世界の平和の鍵を握る彼女になにかあったときにすぐに駆けつけるため……ではなかった。もちろん、それもある。が、最も大きな理由は、ヒイロ自身がリリーナに近付かないためにあった。
リリーナは今日はここにいる。では、ヒイロはここには近付かない。決して、リリーナの姿が見えるその場所には近寄らない。
では、なぜ出逢ってしまったのか。
信号が青に変わって、ヒイロはブレーキからアクセルを踏み込んだ。軽い振動とともに車が滑り出す。
ヒイロは、前を向く。
……では、なぜ出逢ってしまったのか。
彼女が近くに来ている、そう思った時点でパソコンの電源を落とした自分を、ヒイロは思い出していた。
彼女が、今、自分のいる場所とあまりにも近くにやってくるとき、ヒイロは必ずそうしていた。
すぐそこに彼女がいることを知ってしまえば、触れたくなる。いつもいつも留めている想いをぶつけて、めちゃめちゃにしてしまいたくなる。
だから、逢わない。
彼女の居場所を突き止めない。
なのに、偶然は起こってしまう。
どうして彼女は、素直に駆けてくることができるのだろう。
そして、どうして自分は立ち止まってしまったのだろう。貪欲な想いが彼女を傷つけてしまうと、わかっていたのに。
24日 AM0:57
そうすることだけで、溢れる想いを消し去ることができればいいと、どれほど思っただろう。
二人は唇を重ねることだけを、ただ、繰り返していた。絡まる互いの想いをこうすることでしか癒せない。
苦しくて。
それでも。
ずっとそうしたいと思っていた。白い肌に触れて、いつも真実のみを気丈に紡ぐ唇から漏れる吐息を聞きたかった。
ずっとそうしたいと思っていた。自分の名前だけを呼ぶ彼に抱かれて、その腕の中で、彼の名前だけを呼びたかった。
モスグリーンのバンドを外したのは、どちらだったのか。リリーナの手首にあった贈られたばかりの時計が、二人の時間から逃れるように、零れて、落ちた。
時間が、止まってしまえばいい。
求めていたものを手に入れたと思える瞬間だけ、永遠にあればいい。
けれど、それは幻。
「……ヒイロ……」
聞きたかった声。
呼びたかった名前。
流れてしまう時間に、二人してしがみつくしかなかった。
23日 PM11:30
ちらちらとライトに反射する光に、ヒイロは少し車の窓を開けた。
冷えた風が入り込んできて、なにかあったのか,と聞きたそうにリリーナが向く。
「雪だ」
「雪?」
「ああ……」
無愛想なヒイロを、いまさらリリーナは気にしない。そう雪が降ってきたのね、と呟やいた口元が、嬉しそうに咲った。
「では、明日は白いクリスマス・イブになるわね」
24日 AM1:34
ひそめた吐息で囁きかけるリリーナの肌に、ヒイロは何度も口接けた。
ときどきリリーナの細い指が、なにか助けを求めるように、ヒイロの頬に触れる。
崩れ落ちたシーツの上で、肌の触れあう音がする。
「……リリーナ」
呼ぶヒイロに、リリーナは微笑んだ。重なる躰に腕を回して、少し硬そうなヒイロの髪をなでる。
「なに……?」
「おれは、おまえの気持ちを、知っている」
「……ほんとうに?」
無理に抱けば壊れてしまいそうな細い肢体を、ヒイロは眺めた。つ、と首筋をなぞると、リリーナは甘い息を吐き出した。
「私は、あなたの気持ちを知らないわ」
「…………」
「……それでも、私はあなたを」
アイシテイル。
言葉は唇で塞がれた。
すべてをごまかすようにキスをした。
「それ以上、言うな」
おまえはおれのものではない。
違う。
オレノモノダ。
言ってしまいたかった。でも。
そう、リリーナの気持ちを知っている。
目眩がするほどの彼女の素直な気持ち。それを感じられないほど心は腐ってはいなかった。
心というものなど、どろどろに腐敗していればよかったのに。
そうすれば、一人だけで生きていけたのに。
リリーナにさえ出逢わなければ、自分のすべては変わることはなかった。心など、腐ってしまっていると思っていられたのに。
なのに今は、そう思うこともできないほど、自分は彼女を求めている。
でも。
気持ちを、伝えてどうなる?
自分のものだけにしてしまうことができるのなら、とっくにそうしている。枷をして、誰も、陽の光すら届かない場所に閉じ込める。いっそ、そうしてしまえるのならよかった。
でも、できない。そうするわけにはいかないから、自分にできるのは、こんなふうに彼女の気持ちを利用することだけ。
抱いているのに、自分の気持ちは伝えない。決して。
彼女は自分のものではない。
それでも彼女は自分のことを……。
「おまえはおれを、軽蔑していい」
そうされることがまた唯一、彼女を抱くための理由になる。
「いいえ。軽蔑されるのは私のほう」
リリーナは両手のひらでヒイロの顔を、愛しげに包み込んだ。
目の前にいる彼が、言う。
『ソレイジョウイウナ』
それは、どういう意味かと考える。もう知っているからいいということなのか、それとも、無駄なことを口にするなということなのか。
ヒイロの気持ちを知らない。知らない、知らない、知らない。……想像もできない。
ではなぜ、こうしてここに二人でいるのか。
ヒイロを見つめる瞳から涙が溢れて、零れた。
ねえあなたは、私の我儘のためにここにいるの?
と聞くのが、恐くて。
オレハオマエノモノダ。
それは、どういう意味? あなたが守りたいものは、私? ……いいえ、平和の鍵となる……私?
「私は……そんなに、あなたに飢えた顔をしていたのかしら」
飢えているのはおれのほうだ、と、ヒイロは告げない。
「……泣くな」
「泣く私は、抱けない?」
「優しくしてやることが、できない」
「……かまわないわ」
ヒイロの手にリリーナは自分の指を絡めて、引き寄せた。
「あなたは、私のもの……?」
「……ああ、そうだ」
沈んでいく夜にうなされるのは、想いが決して醒めることがないから。
かかる体重すら愛しくて抱きしめる。
息が密やかに肌に染み込んでくるのを、漏れる声と同じほどに感じながら……。
流し込んでしまいたかった。
愛していると、言葉にしない、すべての代わりに。
カーテンの隙間から落ちていく雪。
雪だけが、この世の中で二人の存在を認めているようだった。
24日 AM5:45
目覚めたとき、リリーナはベットにも、部屋の中にも、一人きりだった。
「ヒイロ?」
彼がすでにここにいないことを知っていた。それでも呼んでみた。
当然、返事は、ない。
起き上がったリリーナは服を身に付けている途中、テーブルの上に置かれた腕時計を見つけた。
足元に散乱していたはずのグラスの破片は、奇麗に片付けられていて見当たらない。
すべてが、いつも見ている夢だったのかと、一瞬、思った。
けれどブラウスのボタンをはめていて、ふと気が付く。
胸元に残る、いくつもの赤い欝血。
それは確かに、彼が刻んだもの。
「ヒイロ」
リリーナは、呟いていた。
「よい、クリスマスを」
そうして。
プリベンター所属の彼女たちの小言を聞く暇もなくシャトルへと乗り込んだリリーナは、訪問先のX18999コロニーにて失踪。
同コロニー、独立宣言と共に地球圏統一国家に対し宣戦布告。
世界は、また揺れ始める。
その後しばらく、リリーナの意志とは関係なく共にいることになったマリーメイアは、父だという男によく似た瞳でリリーナを見上げて言った。
「それはなにかのおまじない? だとしたら、ずいぶん子供染みているわ。勘違いしないでね、子供とは、なにもできない人のことをいうのよ。今のあなたのことね」
リリーナがたまにする、自分の手の平に口接ける仕種が、マリーメイアの気に触ったようだった。
リリーナは言われて初めて気が付いたというように、少し眉を上げた。
「私は大切な人から、大切なものを預けられています。私は、それを守るためにいるのです」
「守る? 今のあなたが言うべきせりふではないわね。地球はもうすぐ私のものになるのよ。あなたが、いったいなにを守ると言うの?」
「私の、守るべきものを守ってみせます」
「言うのは簡単ね」
「そう思いますか?」
マリーメイアに挑む眼差し。リリーナのそれは、自分に対するものでもあった。
私の守るべきもの、それはあの人の守るべきもの。
……あの人は、私のもの。
私が恐れているのはあの人の前にいるときの私だけ。
リリーナは、いまだ鮮明にキスマークの残る胸元に、そっと手の平を押し当てた。
あの人はどこかで私を見ている。
では、今ここに一人でいる私は、私のすべきことについてなにも恐れる必要はない。
「……ヒイロ……」
それは、呼びたかった名前。
そして、聞きたかった名前。
おわり
あとがき
エンドレスワルツをご存知でないとよく分からない内容で申し訳ないです。すこし大人な雰囲気をねらってみました。いえ、アダルト、ではなく。
なんだか真面目なリリーナとなんだかまじめなヒイロ、でした。
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