わりとよくある休日の光景(かもしれない)
『リリーナの場合』
ばったり
ばったり。
出会った。
なんてことはない街の中の交差点の途中で。だから驚いて、立ち止まって、でも、じゃあどんな表情をしようとかそんなこと考えるより先に、吹き出してた。
「なんて顔しているの?」
ばったり出会った相手の顔。
おかしい。
でもそんなことがおかしくて笑っている自分が、なんだかもっとおかしい。
街の人混みと騒音に汚れた風が吹いて、リリーナは飛んでいきそうになったつばの広い帽子を押さえた。歩行者用の信号が点滅を始めた。周りの人々は足早に交差点を渡っていく。
しましまの歩道の真ん中にやがてぽつんと二人だけ取り残された。先を急ぐ車が二人を急かすのにクラクションを鳴らす。低くて太い無粋な音。
それでも、リリーナは楽しそうに笑っている。
「あなたも、お買い物?」
リリーナはクラクションを鳴らし続ける車に、ごめんなさい、と優雅に頭を下げると、ばったり出会ったその人の手を取って、今来た道を戻り出した。
こんなところでばったり出会ったのに、相変わらず表情ひとつ変えようとしない人。
おかしい。
表情も変えずに、それでも、同じように立ち止まってくれた人。
同じ行動をとった人。
手を引いてみても、その表情と同じように頑なに簡単に引かれてなんてくれないと思ったけれど。案外簡単についてくる人。
「リリーナ……?」
渡り切ったところでやっとその口を開く。名前を呼んでくれる人。
「なあに?」
手を繋いだまま。振り返る。
「なあに? ヒイロ」
言いたいことは、ちゃんと言って。
繋いだ手を振りほどかないで。
ほんの少しでいいから、笑ってみせて。
ねえ。
「ひさしぶりね。元気そうで、よかった」
……ねえ、ヒイロ。
「おまえ、こんなところで何をしている」
手を繋いだまま、予想していた通りの質問をされた。
予想通り。
なんて、それも楽しい。
出会ったばかりのこの人は、それこそ予想もつかないことばかりをしていた。今では、こんなふうに予想できる。そのために用意しておいた答えを言うことができる。 どんなことを言う?
どんなふうに答えたら、どんなふうに返してくれる?
「買い物をしていたの。きれいなスカーフを見つけたのよ」
肩にかけていた生なりに青いラインの入ったトートバックから包装された品物を見せる。
今日のリリーナは、そのバックに合わせた服装をしていた。七分の袖丈の綿のブラウスに、膝丈のグリーンのフレアースカート。それから素足に履き慣れたサンダル。髪は、どこかの誰かのように後ろにひとまとめに三つ編みにしてみた。
残暑をしのぐ大きな帽子がなんとなくほんの少しお嬢様風な、けれど、その辺を歩く若者となんの変わりもない格好。
「護衛もなしに一人で……」
「平気よ。誰も気付かないわ」
ほらね、とリリーナは辺りを見回す。ごった返す人々に、リリーナもヒイロも埋もれている。こんなにぎやかな街では、誰も他人のことなど気にしない。リリーナの持つ独特の雰囲気にも気が付かない。ここでは誰も政治や経済の話などしない。話題に上るのは、昨夜のドラマ。これから行くランチのお店。バーゲンの始まった店のこと。流行りの服や流行りの音楽。並んで歩くのは友人や恋人。ここはそういう街。
「でも、あなたには気付かれてしまったわね」
満足そうな笑顔に、ヒイロは途方に暮れたような顔をする。なんと答えればいいのか考えている。
「ねえ、ヒイロ」
「なんだ」
「当たり前だ、って言ってみて」
ヒイロはさらに困った顔をする。他人が見たのではわからないだろうけれどこれは困っている顔だ。微かに眉根がよる。怒っているわけじゃないので、恐がる必要はない。
「他の誰も気が付かなくても、あなただけは私に気が付くって、そんなことは当たり前だって、言ってみて」
ヒイロは唇を真一文字に結んだ。 言いたくない。
と、無言で言う。少し目が泳ぐ。実は言いたいのかもしれない。でも言わない。絶対に言わない。なにがあっても言わない。それは固い意志らしく、ぷいと横を向く。
さすがに一筋縄ではいかない。しかも巧みに話題を変えようとしてくる。
「今日は会議の予定が入っていたはずだろう」
ヒイロの予定には確かにそうインプットされていた。間違えるはずがない。
「実はね」
リリーナはくすくすと楽しげに笑う。
「カトルに、情報の工作の仕方を教えてもらったの。あなたまで騙せたなんて、成功ね」
「……犯罪だろう、それは」
カトルめ………、とヒイロは口の中で呟くが、ヒイロにだけはそんなこと言われたくない。とリリーナ以外の人間は激しく思うに違いない。実際、リリーナも少しだけ思わないこともなかったのだけれど。ここで突っ込む問題ではない。
「私の休日は、私のものよ」
リリーナは人差指を自分の唇に押しつけた。
「だから内緒よ」
誰に?
それは今日騙されたみんなに。
ごめんなさい。
騙したみんなに、とりあえず、心の中ではたくさん謝るから。だから許してね。
「ヒイロも、許してね」
「護衛される毎日に疲れたのか」
「違うわ」
ぜんぜん違うわ、とリリーナは再び青になった信号機を眺めた。
道行く人々の流れが跡絶えることはない。人々の会話が跡絶えることもない。街に集った人々は、行く先にあてがあるのかないのか、急ぐ人ものんびり行く人も同じ信号を渡り、同じ道を通り、それぞれの目的の場所へと入っていく。 リリーナとヒイロは、流れの横に立っている。でもそれもまた、流れの一つの光景でしかない。ここに立っているリリーナとヒイロも、歩道の脇の花壇に座り込んで話し込む少女たちも、携帯電話で誰かと楽しそうに話し込んでいる電柱にもたれた少年も、ただの、この街のオプションでしかない。そうして、にぎやか、という形を造り出す。
「誰にだって、この街を出たらやらなければいけないことがあるでしょう? 休日にはこの街に集う人たちも、休日を終えれば家に帰って、学校に行ったりお仕事をしたりするわ。それはごく普通のことでしょう? 私もその中にいるだけよ」
仕事に疲れたとか、そういうのはもっと違う話。
「そして、あなたも偶然この中にいただけ、そうだったなら嬉しいのに、と考えているだけよ」
「偶然?」
「ねえ、ヒイロ。私は、スケジュール帳がいつでもいっぱいの日々を辛いと思うことはないわ。ここで買い物をする。それと同じように、自分がしたいと思っていることをやっているだけだもの。でも」
……でも。
言葉を切る。
ヒイロは先を促すように、だたじっとリリーナを見る。リリーナは、やっと、と言うように口を開いた。
「決められたスケジュールの中には、あなたに逢う時間だけがない」
言い終え、微笑する。微笑みながら、わずかに俯く。
「……リ……」
けれどすぐに顔を上げた。そうしたらヒイロは、言いかけた言葉を飲み込んでしまった。「リ」その後に続いた言葉はなに? もしかして、私の名前だった?
それは、惜しいことをした。もう少し俯いていれば良かった。そうしたら、名前を呼んでもらえたのに。
でも、俯いていたくなんかなかった。せっかく目の前に、いつでもいて欲しい人がいるのだから。もったいない。見ていられるときは、見ていたい。少しの寂しさに負けて、この人を見ていられる大切な時間を減らしたくなんかない。
暦の上では秋を迎えてもまだまだ強いままの日差し。眩しい。リリーナは思わず目を細める。その一瞬、視界が日差しでいっぱいになる。
眩しくて目が痛い。痛みを和らげようと、涙が浮かんでくる。
ただ眩しかっただけ。
なにか悲しかったわけでも、なにかに感動したわけでもないけれど。
「リリーナ?」
もう一度顔を上げると、そこには今度こそ名前を呼んでくれる人がいた。
ああ、そうだ。今は、この人と一緒にいるんだ。
リリーナは繋いだままの手を引き寄せた。
ここにいる人。
大切に、大切な人の手を握り締める。
やがてヒイロは、諦めたように吐息した。
「リリーナ」
「なあに?」
「おまえといると、ここが地球だったことを思い出す」
「そう、なの?」
「ああ」
「……そう」
どうして、と聞いたら答えてくれるだろうか?
「それは、どうして?」
「……どうしてだろうな」
珍しい、曖昧な答え。
日の光。
汚れた風。
雑踏。
手の、温もり。
そのぜんぶが、今ここにある偶然。
例えば、昔の級友にばったり出会うのとは違う。おそらくもっと、もっともっと、低い確率の偶然。
「偶然」が起こる星。
ここに、二人でいること。
ここに、ふたりでいられること。 不意に、リリーナはヒイロに手を引かれた。
「ヒイロ?」
「偶然、だったな」
人混み。その流れに入り込む。「今日はおれも、休日なんだ」
半ば強引にリリーナの手を引きながら振り向いたヒイロは、少しだけ、その眼差しを優しくした。
少しの優しさ。
物足りない?
とんでもない。
これは「少し」じゃないから。
本当は彼の精一杯だから。
嬉しい。
ねえ、ランチはなにを食べたい?
『マリーメイアの場合』
べったり
べったり、腕を組んで歩く。
「レディ、ねえ、お昼はなにを頂くの?」
出かけるときにかぶせられた帽子が邪魔そうに、マリーメイアはレディ・アンを見上げた。このところずいぶん身長の伸びたマリーメイアだったけれど、それでもレディ・アンとの差はまだまだある。彼女の顔を見上げようとすると前方不注意になって、すれ違う人に何度もぶつかった。
危ないから前を見て歩きなさい、彼女は言う。母親のように言う彼女は、実際母親の気分なのだろうけれど。だからマリーメイアのこと以外に気を配ってなんていないのだろうけれど。
でもこんな街中では誰もが彼女に振り返る。伸ばした背筋も長い髪も、とてもきれい。
積み上げてきた歴史も文化も習慣も、なにもかもを消してしまってそこに雑多ななにかを詰め込んだようなごみごみした街。目に付くのはとにかく数の多い人々の頭と、派手な街並みと、排気に薄汚れた街路樹とガードレール。
こんな街を、彼女は堂々と歩く。
昼食はあなたの好きなものを、とレディ・アンが言う。マリーメイアは唇を尖らせて、彼女の腕にさらにしがみついた。
「わたしは、レディが食べたいと思ったものを食べたいわ」
レディ・アンは少し眉根を寄せてマリーメイアを見下ろした。マリーメイアはレディ・アンの言いたいことをすぐに察して、ちょこんと肩をすくめた。
「誤解しないでね。わたしに意見がないわけではないのよ」
にこりと笑う。
「わたしが読みたい本をたくさん買ってもらったわ。わたしに似合う服をたくさん選んでもらったわ。それと同じわがままよ」
「それなら私は、マリーメイア、あなたの欲しがった本を買ってあげることができた。あなたに似合うと思う服を選ぶことができた」
「そしてわたしが食べたいと思ったものを一緒に食べるの?」
「こんなに楽しいことはないでしょう?」
「それは、そうね」
腕にしがみついたまま、くすくす笑う。
レディ・アンも、微かに笑った。いたわるように、慈しむように、その目がいつも自分を見ていてくれることを知っている。
「ねえ、レディ。わたしも、あなたと同じ目をしているのかしら」
「同じである必要はないでしょう」
「ええ、必要はないわ。でも、同じでいたいの。そう思っている自分が好きなの。だって、なんだかね……」
言いかけた眼差しが、ふとなにかを見つけて立ち止まった。
「マリーメイア?」
どうしたの? と心配げにかけられる言葉。
きれいなひと。
いつも傍にいてくれるひと。
日差しは今日も強くて暑いのに、ずっとその腕にしがみついていても、嫌な顔ひとつしないひと。
大切なひと。
マリーメイアの視線をレディ・アンもたどる。そこにいたのは、見慣れた少女と少年。レディ・アンが彼らに出会った頃に比べれば心身共に成長しているけれど。それでもまだまだ、このにぎやかな街の中では、注意しなければ同じ年頃の人々に紛れてしまう彼ら。
「リリーナさん、よね?」
確かめるようにマリーメイアが呟く。
リリーナの手を引くのはヒイロ・ユイ。そのあたりでよく見かける恋人たちのように、なにか楽しそうに会話しているわけでも微笑みをかわしあっているわけでもないけれど。
マリーメイアは人混みに紛れてしまった二人をそれ以上追うことはせず、もう一度、レディ・アンを見上げた。
「誰かを大好きな自分が、好きなの。大好きな誰かに大好きでいてもらえることが嬉しくてしかたがないの。たわいのない自己満足だと言われても、それを確認するたびに、夜も眠れないほど幸せな気分になるわ。確認しなければ不安な夜もあるわ。でも、そんなものはどうでもいいの」
もうひとりにはならない。なにか誰かの役に立っていなければ、その誰かと共にいられないわけじゃない。誰かの役に立とうと必死になる必要もない。
ただ、ここにいればいい。
それでいいと言われたわけじゃない。だけど、言葉ではなくても、もっと違うなにかで伝わってくる。
ちゃんと伝わってくる、暖かいもの。
マリーメイアは、レディ・アンの腕を抱きしめた。
暖かい。
コホン、とレディ・アンが咳をした。風邪をひいた……訳ではない。なにか言いたいことがあるらしい。小首を傾げるマリーメイアに、レディ・アンは辺りの人の目も気にせずにその場にしゃがみ込むと、マリーメイアと視線を同じ高さにして、その肩をポンポンと叩いた。
「あのね、マリーメイア」
「なあに? レディ」
毒気のないにこやかに笑顔に、レディ・アンは負けじと詰め寄る。
「夜も眠れないほど好きな誰かがいるなんて早すぎるわ……いえ、そうではなくて、それは同じ学校の男の子? 簡単にたぶらかされたら……いえ、だからそうではなくて、とにかく」
コホコホと、咳で何度もごまかしながら、
「一度家に連れていらっしゃい。あなたにきちんとふさわしい男かどうか私がぜひ……っ」
思わずこぶしに力が入るその姿に、マリーメイアはこらえ切れずに吹き出した。
「レディよ」
「ええ、もちろんあなたはレディだし、きちんと淑女として扱ってくれる紳士が望ましいわ」
「………えーと」
先程のヒイロとリリーナのせいだろうか。レディ・アンはなにか激しく勘違いしている。
マリーメイアは、同じ高さのままの彼女に、笑いかける。
「わたしが大好きなのは、今こうして目の前にいてくれるレディだけよ」
きれいな髪のかかる首元に抱きついた。
気のせいか、レディ・アンが安心したように息を吐き出した。
「レディも、わたしを大好きよね?だったらわたしたち、両想いだわ」
みんなが振り返るきれいなひと。
見て。
わたしの大好きなひとよ。
わたしを大好きなひとよ。
『五飛の場合』
こっそり
こっそり、としているわけでは別にぜんぜんないのだけれど。そもそもそんな言葉、使いたくなんかない性格のはずなのだけれど。
「こちらでよろしいですか?」
にこやかな店員から包みを受け取りながら、しかし五飛はなにか信じられないものでも見たように窓の外を眺めていた。
ごみごみごちゃごちゃした騒がしい街。同じ年頃の若者ばかりが集う街。こんな街を特に好きとも嫌いとも思ったことはない。なにやらわけのわからない話題で盛り上がる奴らにはついていけないし、ついていく気もない。だからといってこの街が嫌いではない。
汚かろうと美しかろうと、それはそれで街であって、人々の生活がある。ここはこういうものなのだ、と無意識に思っている自分がいる。
とりあえず、この街には休日の都合をつけては何度かやってきていた。といっても、目的はこの店だけだ。
日々毎日が歩行者天国な街のため、車では入れない。地下鉄を乗り継いでやってくる。この店にはうまい茶があった。
「あの、お客様?」
じっとりと窓の外を眺めたままの五飛に、長い髪をお下げにした店員が再び声をかける。目当ての茶っ葉を包んでもらった五飛は、特に慌てもせずに、これと同じ茶を一杯もらえるか、と告げた。この店では茶を販売するだけではなく喫茶のコーナーもある。先に代金を済ませると、五飛は席にかけた。この店の席は、すべて窓際にある。
窓の外を眺める。先程思わず凝視してしまったこの店の横を通り過ぎた二人には、激しく見覚えがあった。見間違いかとも思ったけれど、窓際から次第に遠ざかっていくあの後ろ姿はやはりそうだ。 リリーナ・ドーリアンとヒイロ・ユイに間違いない。これまた見間違いでなければ、手を繋いでいた。……別にどうでもいいことだけれど。
休日でもリリーナ・ドーリアンには護衛がつく。今日の護衛はヒイロなのだろうか。日頃ろくに連絡も取れないヒイロにいったいどう繋ぎをとったのか。
ここでカトルあたりならば、彼女だけはヒイロの居場所を知っているのかもしれないね、と思ったかもしれない。
トロワならば、ヒイロのことだ彼女の行動くらい見通している、と思ったかもしれない。
五飛はただ、レディ・アンだかサリィだかが手配したのだろう、と思っただけだった。何人もの護衛がついていてはかえって目立つ。あの二人だけならただのデート風景に見えないこともない。実際ただのデートに見えたので思わずびっくりしてしまった五飛だった。
実際ただのデート風景なんですけど……と訂正してやる人間はここにはいない。
入口付近から女の声が聞こえてきて、五飛は見向いた。
「もしもし、デュオ? って、まって、ここ電波悪くて、もしもし?」
見覚えのない女だが「デュオ」と言うおそらく電話の相手にはイヤになるくらい聞き覚えがある。もっとも、それが自分の知っている奴だとは限らない。それでもなんとなく気になる。
ショートカットがずいぶん元気の良さそうに見える女は、茶っ葉のつまったショーケースを眺めながら電話を続ける。
「ねえってば、頼まれたお茶の名前、なんだったっけ? は? 地球に旅行に行くなら買って来てって、デュオが頼んだんじゃない。前に飲ませてもらったお茶がおいしかったからって」
これでもかと揃っている茶の種類に、女はうんざりした様子を見せる。最後には、わかんないなら適当に見繕っちゃうわよ、と言い出した。うんざりとはしているが、特に特別に腹を立てているという様子はない。どこか楽しんでいるようにも見える。
「え? 紅茶でしょ? 違うの? 中国茶? そうだっけ? はあ? 五飛に聞いたらわかるのになあって、……あんたねえ」
声がでかい。
五飛はさり気に女から目を離し、窓の外を眺める振りをした。
………デュオに五飛、ときたらそれはまず間違いなく自分と奴のことではないのか……?
「失礼いたします」
店員が茶を運んできた。色鮮やかな中国茶器に入れられた琥珀色の茶だ。香りが店内に広がって、なにげにこちらを見た女と目が合った。
……嫌な予感がする。
どうやら女には五飛に見覚えがあったらしい。五飛もなんとなくだが思い出した。たしかヒルデ、と言ったか。終戦間際にリーブラに潜入した女だ。
ヒルデはにっこり笑ってひらひらと手を振ってくる。電話の相手には、もうわかったからいいわ、おみやげ楽しみにしててね、と言って切る。
こっちに来るな、と五飛は心の中で密かに念じた。茶を運んできた店員を引き止める。
「あの女……彼女にこれと同じ茶を出してやってくれ。ついでに茶の入れ方も教えてやってくれないか」
五飛は自分の買った茶の包みを示す。かしこまりました、とにこやかに言った店員はそのままヒルデに同じ茶を勧めた。
念が通じたのかヒルデはこちらに寄ってくることはなく、最後にぺこりと五飛に頭を下げると足早に店を出ていった。店の外では女が二人待っていた。一緒に旅行に来た友人だろう。
店内が静かになった。五飛はやっとゆったりとした気分で、茶を一口飲み込んだ。
店を出るころには時計は正午を差していた。大通りに出ると甘ったるい匂いがした。見ればクレープ屋に行列ができている。
腹は減ったが、まさかあの行列に並んでクレープを食べる気はない。そしてまさか、あの行列の中に知り合いがいるとも思わなかったのだけれど。
たった今クレープを受け取ってなにか楽しげに会話しながらこちらのほうに向かってくるのはレディ・アンとマリーメイアだった。まっすぐこちらに向かってくるが、五飛には気が付かない。
気付くわけがないな、となんとなく思う。
それはあの二人に限ったことではない。誰も、周りのことなど気にかけない。無関心、なのではない。それよりももっと大切なことがある。
なにがどう大切なのかなんて、それは人それぞれだけれど。確かにあるのだろう。
レディ・アンとマリーメイアは、五飛には気が付かないまま何メートルか離れた場所をすれ違って、行ってしまった。
五飛は茶の包みを小脇に抱え直す。今日はこの後本屋による予定だった。その前になにか腹ごしらえしたい。なにを食べようか、と考える。
食べたいものを思いついて、五飛は足をその店へと向けた。
願わくば、これ以上知った顔と出会うことがないように、と笑い出したくなるような気分で思いながら。
静かがいい?
賑やかなのがいい?
あなたは休日を、どう過ごす?
多分、終わり
あとがき
終戦後、五飛はプリベンター所属中、ということで地球にいるみたいです。
こんな穏やかに過ごしてるんでしょうか、どうなんでしょうか……。 |