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 すべてを失った暗い部屋の中で、ドロシーはその言葉を聞いた。

「死なないで」

 ……死?
 単語を、心の中で繰り返した。
 そんなもの恐れていなかった。恐れたこともなかった。怖かったのは、すべてにおいて敗北することだけだった。
 ……では、なぜ涙なんて溢れてくるのだろう。
 瞳から零れて丸い水滴になって自分のまわりに浮く涙を、ドロシーは見つめた。
『彼女を死なせてはいけない』
 この戦争が始まって聞いた「死」についての台詞は、トレーズク・シュリナーダが言ったそれだけだった。
 彼女が……リリーナ・ピースクラフトだけが生き残ればいい。
 そう、そんなことはわかっていた。彼女だけはなにがあっても死なせるわけにはいかなかった。
 でも。
 自分に、死ぬな、と、カトル・ラバーバ・ウィナーが言った。
 死ぬな……と。
 ……戦争は終わった。いや、終わるのだ。
 ドロシーはゆらりと立ち上がると、沈黙したモビルドールの制御室を後にした。
 リーブラを脱出するための船は、大抵出た後のようだった。格納庫の隅のほうのシャトルに乗り込もうとしたドロシーの手を、中から、取るものがいる。驚いて顔を上げた先には、ホワイトファングの制服を着た若いクルーが微笑んでいた。
「あなたで最後です、ドロシーさん」
「……あなたたち……」
 ドロシーが常に身を置いていたブリッジでは見たことのない者たちばかりだ。本来なら、ドロシーの声を直接聞くことのない下っ端の兵たちだろう。
「女性一人を置いていくわけにはいきません。元世界国家軍が残存兵受け入れの許可を出していますが、MO−2などへ行く気はないですか?」
「……いいえ」
「よかった。では、行きましょう」
 女性……というよりは、まだ十五歳の少女にかけられた優しい言葉だった。
 ドロシーはクルーに手を預けると、小さく、呟いた。
「……ありがとう」



 ドロシーの乗ったシャトルが脱出して数分後、リーブラは五人の技師たちによって起こされた爆破の炎に包まれた。席を共にしていたクルーたちは、もたらされた敗北を視覚的に感じ、その光景を複雑な表情で眺めた。だが、それよりさらに数分後、敗北はある意味での勝利となった。
 地球に降下し続けるリーブラの一部が翼を持つガンダムによって破壊された。地球に冬をもたらすものはなくなり、宇宙、地球共に共存を望む声を上げた。
 クルーたちは手を取り合って歓声を上げた。
 ドロシーは膝の上に置いた手の平を握り締めた。
「……ミリアルド様、これからは再び、リリーナ様の時代がまいります」
 宇宙からはすべての武器は排除されるだろう。初めてリリーナとまみえたサンクキングダムの学園にあった庭園のように、リリーナの主義に倣い、宇宙は美しく変わっていくのだろう。
 このとき、ドロシーはまだミリアルド・ピースクラフトの生死を定かにしていない。
 そうして。
 そうして、いつものように毅然と顔を上げたドロシーはシャトルの窓越しに、今や残骸でしかありえない元モビルドールの破片が漂うのを眺めた。
「これが、あなたの求めていた時代です。トレーズ様……」
 今は亡き世界国家元首の名を呟く。
 ドロシーは確かに、最後の戦争をその目に焼き付けたのだった。


      ◇


 快く迎え入れられたMO−2で待っていたのは、ミリアルド・ピースクラフトの死と、地球圏統一国家設立の知らせだった。対極にある二つの知らせに、ホワイトファングのクルーたちがそれぞれの感想を洩らす中、ドロシーはあえて感情を表さなかった。
 ……終わったのだ、と。
 あるのはただ、その想いだけだった。
「疲れただろう。部屋を用意した。休むといい」
 声をかけてきたのはルクレツィア・ノインだった。彼女は、彼女の最も愛するものを失ったという話題の飛び交うこの場所で、意外にも平静に見えた。彼の生存を彼女だけは信じているのだろう。
 ドロシーはそれまで止めていた呼吸を取り戻すかのように、息を、吐き出した。もしかしたら微笑んでいたのかもしれない。
「優しく、してくださるんですね」
「今、この宇宙に争いはない。リリーナ様も心配しておられた。一度顔を見せてあげなさい」
「リリーナ様は王子様と感動の再開をしているのではなくて? 邪魔はいたしませんわ」
 ノインが、少しだけ、呆れたように笑った。
「邪魔のしがいのある二人ならよかったのだが。王子様は相変わらずの性格だ。リリーナ様もしかり、二人ともそれぞれの事後処理についている」
 つられて、ドロシーもやっと笑みを確かにした。
「……ノインさん」
「なんだ?」
 あの……と口ごもったのち、ドロシーはその名前を口にした。
「カトル君に、お会いしたいのですけれど」
 カトルが傷を負ったのはドロシーのせいだと、もう誰もが知っていると思っていたのだが、ノインは意外そうに首を傾げただけだった。
「ああ、君はカトルとも面識があったんだな。カトルなら医務室にいる」
「……医務室……」
 呟きをノインはどう受け取ったのか、心配することはない、とドロシーの肩を叩いた。
 カトルは腹を貫通したほどの傷をどこで負ったのか、ただひたすらあの笑顔でごまかし通していたのだった。
「同じ知り合いとして語り合うなら、ヒイロよりもはるかに心の休まる相手だな」
「あの、そうではなくて……私が彼を……」
「医務室はここから突き当たりを右に行って真っ直ぐだ」
「……あの………」
「だがその前に一度部屋へ寄ってシャワーでも浴びたほうがいい。カトルも今頃は麻酔がきいているだろう」
「…………」
「部屋は突き当たりを左に行って、その突き当たりを右に行ったところのすぐ右にある」
「……お言葉に、従いますわ……」
 まさかノインと会話が噛み合わないと思っていなかったものだから、頭を抱えつつもドロシーは、そのときやっと声を出して笑いたい気分になった。
 しめされた廊下に出、突き当たりで左に曲がる。ふと、立ち止まって振り返った。長い廊下の向こうで、今は眠っているはずの人物を想い浮かべる。
 彼は、自分の顔を見たとき、いつものように笑ってくれるだろうか。
「………………………」
 ドロシーは、そんなことを思った自分にまた頭を抱えた。 なんだか、どうも弱気だ。
 お望み通り生きてかえってまいりましたわ、くらい言ってやってもいいはずだ。なにしろ自分は彼の望みを叶えてやったのだから。感謝されて当然。こっちは涙まで流してあげたのだ。いやあ、実に十年ぶりの涙だった。十年前の涙は……あれは、そう………。
 ……まあ、とにかく、だ。
 どうやら調子が戻ってきたことを実感しつつ、ドロシーはぷいと視線を戻すと床を蹴った。半無重力状態で、躰がふわりと浮く。
「私などにやられる甘さについては、まだ議論の余地ありですわ」
 彼に対して、勝ったはずの自分が味わっている敗北を思うとなんだか腹も立ってくる始末で。
 長い長い金髪をなびかせ廊下を行くドロシーのブツブツとした呟きは、擦れ違う人々の視線を集めまくる。が、気にせずにドローは自分の部屋を目指した。
 戦争という名の束縛から開放されていく心を感じながら、その瞳は穏やかさを少しづつ取り戻していくようだった。



 リリーナが用意してくれたという服に着替えたドロシーは、シャワーを浴びてまだ少し濡れている髪を首の辺りでくくって部屋を出た。目的地は医務室ではなく、司令室だった。シャワーを浴び浴室から出てくると、通話用のモニターに司令室からメッセージが送られていたのだ。
 司令室ではまだ軍服を着たままのレディ・アンが、一通の手紙を手にしてドロシーを待っていた。
「トレーズ様からあなたに宛てられてものだ。受け取りなさい」
 今時紙にペンで綴られた文字を、ドロシーは躊躇いなくその場で開封すると目を通した。
 ゆっくりと時間をかけて手紙を読む。
 やがて唇に笑みを浮かべると、折りたたんだ手紙をレディ・アンに返した。
「私に、これは必要ありませんわ」
 ドロシーの了解を得、レディ・アンも手紙に目を通す。読み終える頃ドロシーは、もうここには用はないと扉口で立ち去る用意を済ませていた。
「トレーズ様は私を妹のように愛してくれた。私もお兄様のように愛していました。だから、生きていたらこう言ってさしあげますわ。お兄様、それはとも大きなお世話です、って」
 言葉には強がりも偽りも見られなかった。ドロシーが出ていくと、レディ・アンは手紙を封筒に戻した。
「私にも、そんなふうにあの方のことを語ることが、いつかできるのだろうか」
 呟きは一人だけのものだった。口にしたつもりだったが、言葉にはなっていなかったのだ。


 不器用な君を素直に受けとめてくれる。そんな人と君が出逢うことを望んでいるよ。


 トレーズの手紙は長いものだったが、要約するとこんな感じだった。
「……本当に、よけいなお世話ですわ」
 司令室から出たドロシーは、一人で、もう一度だけ呟いた。


       ◇


 ……とりあえず「医務室」と書かれた扉の前でドロシーは躊躇ってみた。躊躇ってあげた、のだ。少しくらい殊勝なところを見せてあげなければ、かえって怪我人に気を使わせてしまうかもしれないという優しい心遣いだった。下手に出てあげれば、あちらも遠慮なく「気にしなくていいよ」とかなんとか言えるだろう。まあもっとも、あれはあれでどちらも間違っていないゆえのことだったのだから、気にするとかしないとかの問題ではない。お見舞いに来てもらっただけありがたい、と思ってもらうべきなのだ。
 ……よし。
 心の準備が整ったドロシーは、いざ突撃を決意する。直後、ナイスなタイミングでドアが開いたかと思うと、中からトロワ・バートンが出てきた。
 ドロシーは反射的に廊下の反対側まで後退った。
 く……不覚だわ。手の平握り締めて己を反省する。なにを逃げているのかドロシー・カタロニア。ええい。
「カトル君は、まだ眠っていらして?」
 なんとか体制を立て直したドロシーはトロワをにこやかに見上げた。
 言われたい放題言われた相手に対して頬のあたりがひきつっているのを気付かれるのは得策ではなかったが、目を逸らしたりするのは主義に反しているのでやらない。やましいことはないのだ。
 トロワは開いたままのドアの中をうかがった。
「カトルなら今、目を覚ましたところだ。医師を呼びにこうと思っていたところなのだが……そちらの話が終わったら、俺の代わりに呼びに行ってくれればありがたい」
「承知しましたわ」
 にこやか度も我慢の限界をむかえ、ドロシーはさっさとトロワの横を過ぎる。
 一人外に残されたトロワは、閉まったドアを眺め微かに笑む。人の気配に振り返ると、マグアナック隊の隊長が立っていた。
「彼女が、例の、ドロシー嬢ですか?」
「ああ、例のドロシー嬢だ」
 なかば無理矢理唯一カトル様殺傷犯の名を聞き出していたラシードは、複雑そうにドロシーの入っていった部屋を見やった。トロワは笑みを消さずに、肩を竦めた。
「カトルが女にやられた、などという噂を好まないのなら、ここは見なかったふりをしたほうが利口だ」
「……そうですな」
 素直でない男が二人、廊下を擦れ違っていく。一人はまだいろいろと事後処理が残っていたし、一人は、帰るべき場所にいる大切な人になるべく早く自分の無事を伝えなければならないのだった。


 自分が横になっているベットとドアの間にはついたてがあったため、カトルははじめ、トロワと入れ違いに入ってきた人物に気が付かなかった。今までのように神経を磨ぎ澄ませておかなくても良くなったぶん、たしかに鈍感になっていたのだ。
 小さな音に見向いてそこに彼女の姿を見つけたときには、さすがに驚いた。
「……やあ、無事だったんだね」
 良かった、と表情が言外に告げる。まだ麻酔がきいているらしく焦点がふらふらとしていたが、口調はしっかりしていた。
 ドロシーはついたての影からおずおずと姿を現し、それから勢いよく言った。
「そちらこそ、無事でなによりですわ」
 カトルの姿に胸をなで下ろしたことを悟られたくなくていつも通りを装ってみたのだが見事に失敗し、声が少し裏返っている。その照れ隠しのため、ドロシーはさらにまくしたてた。
「ああああああれくらいのことでトレーズ様のお傍に行かれてしまっては、夢見が悪くなりますわ。小さな親切大きなお世話な方々のために、私の貴重な睡眠時間がけずられるのは本意ではないもの。本当に、生きていてくれてよかったですわ」
 半分はなにを言っているのか、ドロシーにもよくわからない。しかも、どもっている。ゼロシステムまで操ったこの私がっ。
「あああなたが無事なのがわかれば、それでけっこうよ」
 では失礼、となにしに来たんだお前は、とつい自分に突っ込みを入れたくなるほどの短時間で部屋を出ていこうとするドロシーを、カトルが呼び止めた。
「待って、ドロシー」
 ドロシーは待たない。追うように上半身を起こしたカトルが、反動でおこった鈍い痛みに腹部を抱えた。
「カトル……!?」
 見かねて駆け寄ってしまった自分が、ドロシーは憎かった。
 つい数時間ほど前までは冷静にリーブラの指揮を取っていた私がいったい何事!? ふ、私をこれほど動揺させるのはあなたが初めてよカトル・ラバーバ・ウィナー。
 一人、心の中で自分の世界を広げているドロシーは、もうさきほどのトロワとの対面のことなど忘れていた。あれはあれでかなりの動揺だったと思うのだが。
 ドロシーはカトルを横にさせようと肩に手をかけていた。その手にカトルが触れた。なにかを、確かめるようだった。
「……なんですの?」
「本当に、生きているな、と思って」
 ホホエミに、思わず、ドロシーはカトルから手を離した。支えがなくなって、カトルは勢いよくベットに沈み込む。痛みにしかめながらもその顔は笑っていた。あはは、と楽しそうに。
 ちなみにドロシーは、笑いかけられるのはともかく、笑われるのは好きではなかった。少々、表情がむっとする。
「あなたが、死なないでと私に頼んだのよ」
 言ってから、はっとして付け足した。
「別に、もちろん、あなたの頼みだから聞いてあげたのではないわ……よ」
「じゃあ、誰のためにここへ帰ってきたの?」
「……………」
 答えずに、ドロシーはすねた子供のようにぷいと横を向いた。なにかとっても、どこまでも見透かされているような気がする……ような気がする。
 カトルは枕に頭を乗せ直すと、今までの会話を思い出し、そこからある一人の人物の名前を引き出した。
「僕のためでなければ、トレーズ・クシュリナーダ……とか?」
 ガタバコドガゴン。
 ものすごい音がして、大丈夫? とカトルは床にしりもちをついたドロシーを見下ろした。
 そのあたりにあった椅子にちょうど腰を下ろそうとしたときに、カトルのせりふがドロシーに直撃したのだった。……これこそ動揺と言わずしてなんと言うのか……。
「ほら、当たりだね」
「ちちち違うわよっ。そもそもだいたい、僕のためでなければってなんですの、僕のためって。あなたのためなんかじゃないって何度言えば……」
「……ドロシー」
 よっこいしょ、とようやく椅子にかけたドロシーをカトルはしばらく笑ってみていたけれど、ふっと、息を吐き出して、真面目に少女の名を呼んだ。
「……今度は、なにかしら」
「もう、彼のために泣いてあげたかい?」
「……なにを……」
 言いたいのか、という問いかけは飲み込まれた。
 カトルの伸ばした手が、ドロシーの頬に触れた。ひやりと冷たくて、ドロシーは目を見張った。体調の悪さがうかがい知れたのだ。けれど、ドロシーはあえてそのことには触れなかった。
「泣いて、あの人が帰ってきてしまったら、困るのはあなた方ではなくて?」
「……すべてを終えて帰ってきた僕達を迎えてくれた彼女と君は、同じ悲しい目をしているよ」
「……彼女……?」
 問い返してみたが、それが誰のことを言っているのか、わかっていた。特佐と呼ばれた、あの美しい女性だ。
「彼女と、私は違うわ」
 そう、違う。想いという形が、まるで違う。誰かを想うのにはいろいろな形があるから、同じ形など、有り得ないから。
「だから君は泣いていいんだよ。せめて、彼女の代わりに」
「代わりなんて、馬鹿げてるわ。第一……私が誰のために泣こうが、あなたには関係のないことよ」
「僕のために泣いてくれと、頼んでるわけじゃないよ」
「当たり……まえじゃない」
 冷たい、手の、感触に、ドロシーは目を閉じた。
 泣くもんかと思うほど、涙は出てきた。
「十年ぶりに泣く理由がいつもあなただなんて、馬鹿みたいだわ」
 馬鹿みたいだわ……と、ドロシーは何度も呟いた。


       ◇


「ドロシー、君は純粋に争いを憎んでいたんだね。そして、それによって失ったものを悲しんでいたんだ」
「……私が憎んでいたのは、お祖父様一人よ」
「デルマイユ侯?」
「お父様を、殺したわ。お父様は貴族であることも、爵位を持つことも望んでいなかった。なのに、ロームフェラの一員として、お祖父様には従うしかなかったの。ロームフェラは連合を……OZを操ってコロニーを占拠したわね。その次は、地上だったわ」
 頬に触れていたカトルの手を、ドロシーは両手で包み込んだ。
「お祖父様がある小さな国にお父様を赴任させたのは、ロームフェラの力を再確認させるためだったわ。でもお父様は、制圧することの愚かさだけを感じる人だった。私やお母様がいなければ、ロームフェラの一員であることをやめていたわ。……お父様は、連合に刃向かう市民の中にいた子供を連合から助けて、代わりに死んだわ。争いそのものがなければ、お父様は死ななかった。お祖父様さえいなければお父様は死ななかったのよ。私もここにいなかったわ。……もう十年も前のことを、今、どうこう言っても仕方ないけれど……」
「……ドロシー……」
「……お祖父様は、私が殺したわ」
 カトルの手にも、ドロシーの涙の跡があった。ドロシーはそれを眺めて柔らかく微笑んだ。



 目が覚めて、がばりとドロシーは顔を上げた。
 …………………おや?
 うつぶせていたあたりに、シーツの感触。もしかしてもしかしなくてもよりによって怪我人のお見舞いに来ていて泣きつかれて……寝たのか?
「ほんの数分だよ」
 横になったままのカトルが片目をつぶった。……フォローになっていない。しかもずっと、ドロシーはカトルの手を握っていたのだ。あわててドロシーはカトルの手を放り投げた。
「お、お医者様を呼んでくるわ」
「君が寝てる間に来たよ。また麻酔を打たれた」
「………では、お休みの邪魔でしょう。もう戻ります」
 この場をどう取り繕っていいかわからず、つーんと立ち上がって背を向ける。
 その手を、カトルが掴んだ。
 驚いて見向いたドロシーのくくっていた髪が、ほどけて広がる。
 ブルーのリボンがゆっくりと床に落ちていくのを、二人して眺めた。
「………カトル?」
「……君の悲しみを覆っていたエナメルは、もうなくなった? もう、僕がこの手を離しても、一人で泣けるかい?」
 ……そのまま、ドロシーは答えないまま、時間だけが過ぎていくようだった。
 もっとも、ほんの数秒だったかもしれない。
 ドロシーは静かにカトルの手を外そうとした。カトルは、離さない。
「なぜ、あなたは私を止めるの」
「さあ……どうしてだろう」
 と言ったのは本心らしく、カトルには戸惑いの色が見えた。カトルにもわからない理由を、ドロシーはわかったような気がして、困ったように、呆れたように、吐息した。
「あなたは、優しいのよ」
「リーブラでも、君はそう言ったね」
 また少し、カトルの焦点が合わなくなってくる。麻酔がきいてきたのだ。まるで熱に侵されているような、そんな様子で……。
「本当は、どうやら僕は、君にかまっていたいらしいよ」
「それは、私が哀れだからよ」
 口先からするりと出てくる言葉に、カトルは言葉を、ひそめた。
「……どういう、意味だい?」
「あなたは私を可哀想だと思ってるの。ひとりぼっちの女の子を見過ごせないだけなの」
「違うよ」
「ねえ、カトル。それをなんと言うか知っていて?」
 腕を掴まれたまま、ドロシーはカトルに寄った。カトルはドロシーがなにを言いたいのかを察して、首を横に振った。
「違う、僕は……」
「いいえ、違わないわ。あなたは私に同情しているだけ」
「違う!」
 声を上げて否定したかった。でもできなかった。麻酔が、躰の機能を眠りに誘っていく。声に、覇気はない。
 カトルは体調に勝てないことを悟ると、大きく息を吐き出して枕に頭を埋めた。
 そのカトルの髪を、ドロシーが撫でる。
「違わないのよ、カトル。優しすぎてわからないだけ。ここにいるのが私でなくても、あなたは同じことを言うわ。同じことを、するわ」
 カトルの髪に触れたまま、ドロシーはカトルを見下ろしている。
 ……ふいに、ドロシーの髪がさらりと揺れた。腰を屈め、カトルを間近に見る。
「それでも同情ではないと言い張りたいのなら、私に逢いに来て」
「ドロ……シー……?」
 強く打たれた麻酔が支配していく。当然だ、それくらいしておかなければならないはずだ。ドロシーの手には、剣が肉を貫いたあの感触がまだ生々しく残っているのだから。
「あなたから逢いに来て、カトル。そうしたら、違うと訂正してあげるわ」
「君からは、逢いに来てくれないって、ことだね」
「ええ。この気持ちがひとりよがりだと知るのは嫌なの。だって、あなたはトレーズ様とは違うもの。私のお兄様には、なれないでしょう?」
 くすくすとした笑みは、カトルのすぐ傍で零れた。カトルの視界が、ドロシーの髪の、こがねでいっぱいになる。
 まぶしくて目を細めた。
 さらさらの、女の子の髪。
 ドロシーと、名を呼ぼうとしたくちびるに、彼女が、触れた。
 たった一瞬。
 ……それだけ。
 ドロシーは、ずっと腕を掴んでいたカトルから離れると、ついたてに手をかけて振り向いた。
「おやすみなさい、優しい人」
 それはカトルがサンクキングダムで初めて見た彼女と、同じ笑みだった。
 なにかを企んでいる。
 とても、楽しいことを。
 そんなことを考えながら、カトルは目を閉じた。
 ドロシーはカトルがすっかり眠りに着くまでそこにいた。それから医務室をあとにした。


 閑かだった医務室を出て、ドロシーはざわめきの中に戻った。
 この資源衛生を含めたすべての宇宙が静けさという落ち着きをを取り戻すのには、もう少し、時間がかかりそうだった


おわり













あとがき
 まさに終戦直後など。シリアスがいまいち持続しないのはなぜでしょう……。と初めてカトル×ドロシーを書いたときから思ってはいます。ドロシーがね、意外にね、書くとおもしろい人でしたのです。
 



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