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お題をお借りしました。淡い空


**  様々な恋人達で10のお題  **


登場人物は、どこかでなんだか聞いたことのある名前ですが、
当人たちとは(多分)何ら関係ありません。
パラレルです。本編と混同しませんように。
 

      01.裏庭の逢瀬[先生×生徒] 麻子・己陽
      
02.誰よりも知っている[姉×弟] 佳乃子・雅巳
      
03.三階会議室[上司×部下] 和弘・志保
      
04.見かけた後ろ姿[先輩×後輩] 珠美・真己
      05.埋まらない距離[女子高生×中年親父] 古都子・武司
      
06.友情を超えた愛[男×男] 友久・直
      
07.たった一人の器[主人×奴隷] ユワン・リン
      
08.あるのは形のないものだけ[ニート×ホームレス] ユイ・サカエ
      
09.お互いの共通点[OL×社長] 花珠保・一志
      10.もう会えない[警察官×犯罪者] セイ・ナーナ

























   01.裏庭の逢瀬[先生×生徒]



「せーんせ」
 ばっちり目が合ってから、おもしろそうに、あたかもたった今、先生見つけちゃいました、というように呼ばれて、麻子は気まずそうに目をそらした。そうして聞こえるように呟いた。
「また、どうして見つかっちゃうかなあっ」
 気に入らなくて舌打ちをしながら、くわえていたタバコを携帯灰皿に突っ込んで揉み消す。
「一生懸命、人気のないところ探してるって言うのに」
「うんだから、人気のないところに行けば、今日も麻子ちゃんは一服してるかな、と思って」
 職員室は禁煙だしね、と付け加える詰襟姿を、見下ろして、それから、慌てて見上げた。
「……麻子ちゃんて呼ぶなって言ってあるでしょ」
「他の生徒の前では、でしょう?」
「そんな余裕ぶって、うっかり言っちゃったらどうするつもり」
「そんなヘマしないよ」
 絶対!? と聞けば、絶対だよ、と返ってくる。
 麻子は携帯灰皿を、コートのポケットに突っ込んだ。それから、いまさら、あらためて、
「己陽、あんた寒くないの?」
 おとといからやってきている寒波は、あと二、三日は居続けるらしくて、麻子は寒さに身をすくめる。
 己陽は、はー、と息を吐き出した。くっきり白くなる息が、おもしろそうに笑った。
「あはは、寒い」
 麻子は、馬鹿じゃないの、という表情を隠さずに、
「さっさと教室に戻りなさい」
 己陽は、少し不満げに、
「麻子ちゃんは、暖かそうなコート着てるよね」
「だからなに」
「俺も入れて」
 麻子は、己陽を見下ろそう、として、見上げた。
「あんたなに言ってんの?」
「昔はよく、ぎゅって引っ付いて暖まったよね?」
「あんたが勝手に抱きついてきてただけでしょう!?」
「じゃあ、今も勝手に抱きつけばいいんだ?」
「そのでかい図体でなにを言うか」
「でかいって言っても、やっと麻子ちゃんと並んだくらいなんだけど……。もっと小さかったらよかったの?」
 小首をかしげて、かわいらしく言われても。
「ああそうね、昔、みたいに、こーんなちいちゃかったらね。コートの中にもぐりこまれてもよかったかもね」
 その気はまったくない口調で言って、麻子は自分のウエスト辺りで手をひらひらさせる。
 己陽は、納得いかないように、
「えー、でもそれはさ、麻子ちゃんがちっとも大きくなってないからいけないんじゃないの?」
「わたしのっ、十五歳からの十年と、あんたの七歳からの十年との成長の度合いを一緒にしないでくれる!?」
 この十年で、
「俺ね、ちょっと思うんだけど」
 十年前、同じマンションの隣に越してきたガキんちょは、
「十年で、身長は追い付けるのに、年の差を縮められないってなんか不公平じゃない?」
「……なにわけのわかんないこと言ってんの」
 十年経っても、ガキんちょ、のはずだった。
「なんでもいいけど、何度も言うけど、わたしの一服の邪魔するのやめてくれる? あんたが喫煙所には行くなって言うから、わざわざこんなところまで出てきてるって言うのに」
「だって、喫煙所って、あんな狭いスペースに麻子ちゃん以外男の先生ばっかりじゃないか」
「だからなに」
「なに、じゃなくて。だから、だよ」
 麻子は己陽が気にしていることなど何も気にしない。ちょっとは察してよ、と己陽はすねた顔をする。
「別に、俺がいても吸ってればいいのに」
「あんたに臭いが付くでしょう。タバコ疑われて停学にでもなったらどうするの」
「うわ、先生らしいこと言ってる」
「先生なの」
「物的証拠を持ってるわけじゃないから大丈夫だよ。それでも疑われたら、年上の彼女がヘビースモーカーなんですー、って言うから大丈夫」
 冗談を、言っているように笑う己陽を見上げたら、目が合って。そのまま近付いてきた顔を、避けた。
 己陽は、残念そうに、
「避けられた」
 麻子は、あたりまえでしょ、という顔をしただけだった。
 午後からの授業開始の予鈴が鳴る。
「ほら、授業始まるよ」
 麻子が校舎に向かって歩き出すと、己陽が付いてくる。付いて歩いていた己陽は、そのうちに隣に並んだ。
「先生と生徒。裏庭での逢瀬。いい感じのシチュエーションなのに、麻子ちゃんは流されないね」
「今の場所って、裏庭?」
「そうじゃないの?」
「校舎の横なんだから、正確には横庭じゃないの?」
「……麻子ちゃんて、昔から変なトコこだわるよね」
 どうでもいい会話をしていたら、本鈴が鳴り始めて、ふたりして駆け出した。




01.終わり

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 02.誰よりも知っている[姉×弟] へ






































   02.誰よりも知っている[姉×弟]



 部屋をノックしても返事がない。
「姉さん? いるんでしょう? 入りますよ」
 待ってもどうせ返事はない。雅巳は勝手にドアを開いた。
 部屋の中、ベッドに掛けていた佳乃子は、
「勝手に、入ってこないで」
 手元のまくらを投げ付けた。
 雅巳は特に痛くもかゆくもなかったように枕を受け止める。
「俺は、入りますよ、って言いましたよ。お父さんもお母さんも心配をしています。このままそうして、部屋から出ないつもりですか?」
 まくらを抱えたまま、ドアを後ろ手に閉める。
 ドアを閉めた音に、気のせいではなく、佳乃子のからだが揺れた。何かに少し、怯えたようだった。
「俺に、怯えてますか?」
「どうして……っ」
 自分の出した大きな声に、佳乃子は自分で驚いて、続きを飲み込んだ。
「姉さん?」
 なんですか? と、飲み込んだ言葉を催促すれば、佳乃子は雅巳から目をそらして、ひとりごとのように呟いた。
「どうしてわたしが、雅巳に怯えなくてはいけないの」
「だって」
 雅巳は、ドア付近から動かないまま、まくらを、抱えたまま。
「俺に、ひどいことをされたと、思っているでしょう?」
「雅巳は、ひどいことをした、つもり、なの」
「つもり、ですよ」
 ほんの少しもためらうことのなかった返事に、佳乃子は雅巳を凝視した。
 雅巳は、佳乃子の視線を受け止めて、こどものように無邪気に笑った。
「姉さんだって、実の弟に抱かれるなんて、それ以上にひどいことなんてないと、思っているでしょう?」
 手にしたままだったまくらを、佳乃子のそばに放り投げた。
「その後、からだの調子はどうですか?」
 事情を知らないものには、昨日から部屋に閉じ困ったままの姉を気遣う言葉に聞こえた、だろう。
「すみません、まくらを落としてしまいました。拾いますね」
 雅巳を凝視したままの佳乃子の返事は待たずに、まくらを拾い上げる。少し、雅巳は佳乃子に近付く。
「姉さん」
 拾った枕を、ベッドへ戻して、雅巳は佳乃子を見下ろした。
「隣に、掛けますよ」
 佳乃子の隣に掛けて、佳乃子を覗き込んだ。
 すぐ、そばで。
「逃げないでください」
 顔を背けた佳乃子のあごを取って、唇を押し付けた。反射的に身を退こうとする佳乃子に、
「逃げないでくださいって、言いました」
 親指で佳乃子の口をこじ開けると、
「噛み付かないでくださいね」
 深く、唇を重ねた。その勢いで押し倒す。二度目の、行為に及ぼうとする。
 佳乃子は、震える手で、雅巳のシャツを、掴んだ。
 ほんの一瞬、雅巳は正気が戻ったように、
「また、逃げないつもり、ですか」
 前回もそうだったように。今回も。
「途中でやめたり、しませんよ」
 佳乃子はシャツを掴んだまま、
「雅巳が、逃げるなと、言ったでしょう」
 言ったでしょう? ともう一度、言われて、
「……言いました」
 前回も。今回も。
 震えるのは、まだ慣れない行為に、怯えているだけ。
 相手に、怯えているわけじゃない。
 どう、言えば逃げないでくれるか、知っている。
 どう、言うように接していれば、逃げなくて済むか、知っている。
 ベッドにふたり分の体重がかかる。
「雅巳、わたしを好きだと、言ったわ」
「姉さんも、俺を好きだと、言いました、よね」
 だから……。



02.終わり

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 03.三階会議室[上司×部下] へ






































   03.三階会議室[上司×部下]



「もうクビにしてください。てゆーか、クビですよね。クビって退職金もらえますかぁ?」
 落語家がオチを間違えたような、フォローのしようのないプレゼンの失敗をした。志保は資料の散らかったままの机に突っ伏して、無職になった自分を想像して落ち込んだ。
「うー、アパートの家賃は三ヶ月くらいは何とかなるから、その間に再就職できるかな、どーかな。できなかったらどーしようかな」
 いちおうひとりごとのつもりだったけれど、
「佐々木……おまえねえ」
 なんだかさっきからずっと、向かい合うイスに座って志保のひとりごとを聞いている上司への当て付けでもあった。
「家賃の心配より、次のプレゼンの対策を考えなさい」
「次の……」
 え? と志保は顔を上げて、
「次があるんですか!?」
「失敗したまま終わりたくないだろう」
「そう、ですけど。そーなんですけど」
「じゃあ、頑張りなさい」
「はあ……」
 志保は次の機会を与えてくれてありがとうございます、というより先に、つい思っていたことを言った。
「とゆーか、そもそも、藤尾課長がわたしにプレゼン任せたりするからこんなどうしようもない事態になってるんです、よね」
「オレのせいか」
「だって、誰がどう考えたって、なんでわたし?」
「できると思ったからだろ」
「いや、現実にできなかったですし」
 まだ、失敗から立ち直れなくて、ぽかん、と上司が散らかりっぱなしの書類を片付けていくのを眺めながら、
「次も、なんだか確実に失敗する予感が、むんむんします」
「……ひしひし、だろう」
「ああ、それです、それ」
「とにかく、もう一度、頑張りなさい」
「……はい」
 志保も、書類を片付け始める。次は成功するとも思えないけれど、クビが繋がっていることに安心もして、なんとなく、次はどう話を持っていこうか、考え始める。
 考え、ていたら。なんだか。もしかしなくて、どこかから漂ってくる不穏な空気に顔を上げた。
「あれ、藤尾……課長?」
「なんだ」
 と顔を上げた上司の、顔が。
「なんか、怒ってます? ってやっぱりプレゼンの失敗、怒ってますね!?」
「怒ってないわけはないだろう」
「あああああ、やっぱりい!!」
 と、声をあげたら、ばこん、とファイルで頭をはたかれた。
「怒ってはいるが、呆れているのはそのせいじゃない」
「あれ、呆れてもいるんですか!?」
「おまえにな」
「……はあ、だから、私の失敗に」
「違う」
 じゃあなににですか、と聞いても、聞こえなかったようにスルーされた。志保は、
「あの、課長?」
 しつこく呼んでも、
「……かちょーー?」
 どんなに呼んでも、
「ふーじーおーかちょーうー」
 耳を貸そうとしない相手の、ネクタイを、引っ張った。片付けていた書類はほったらかしで、
「和弘、さん?」
 かすかに、相手が反応したのを見て、
「かずくん」
 と言ったところでまたはたかれた。
「さっさと片付けろ」
 とりあえず、はあい、と返事をして片付けを再開する。書類をかき集めながら、志保は我慢できずに笑い出した。
「もしかしなくて、私が、安易に会社やめると言ったから怒って呆れてます? 仕事にまじめにとか、そういうんじゃなくって、私がいなくなっちゃうかもしれなかったのが、寂しい、とか思っちゃいました?」
「思ってない」
「はいはい」
「思ってないって言ってる」
「はいはいはい」
 さっきまで落ち込んでいたのが嘘のように、志保は元気よく笑って、山と積み上げられた書類を抱えた。
「佐々木志保、クビにされないように次のプレゼンは頑張ります」
 両手がふさがっているので敬礼はできなかったけれど、そうしたい気分で、
「じゃあ、今晩はプレゼン原稿見直しするので部屋に寄れないけどしょんぼりしないでね。どーしても寂しかったらメールしてね。和弘サン」
 残した上司がいったいどんな顔をしたのか。想像をするとまた笑い出しそうになるのを我慢しながら、会議室を後にした。



03.終わり

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04.見かけた後ろ姿[先輩×後輩] へ






































   04.見かけた後ろ姿[先輩×後輩]



 登下校は必ず、一緒だった。
 手を繋いで帰る。海辺から勢いよく吹いてくる風が、笑っちゃうくらい冷たくて、風が吹くたびに、今日も寒いね、と笑った。
「おれ今日、三回くらい、珠美先輩の後ろ姿、見かけた」
「そうなの? 声、掛けてくれればよかったのに」
 なんでもないことのように気軽に言った珠美に、ほんの少しだけ、戸惑いながら、
「声、かけてよかった?」
「よかったよ」
「でも先輩、慌ててたから」
「じゃあ、移動教室のときだったのかな」
「慌ててた?」
「慌てたくないけど、うちの学校って、音楽室とか理科室とか図書館とか、遠くない?」
「三年生は、校舎、三階から一階まで降りて、また音楽室とか三階まで行かなきゃだからね」
「運動不足のからだにはキツイ……」
「受験生だもんね」
「部活、やってるときはもっと体力あったんだけどな」
「バレー、高校行っても続けるの?」
「うーん、一応、その予定」
「他に興味があるものがあったら、そっちをやる?」
「うん」
 珠美は迷いなく返事をする。
 真己は、繋いでいる手を、握り締めた。
 握り締められて、なに? という顔をされて、真己は、そんな珠美が自慢そうに、微笑んだ。
「先輩は、いつも真っ直ぐだから」
「から?」
「一緒にいても安心する」
 車道側を歩く真己は、なにか秘密を持っているような、そんな顔をする。
 なにか、の、秘密を。
 聞いて。
 聞かないで。
 真己は少し、考える。
 珠美は、ほんの少しも、考えない。
「安心できないなにかを知ってるみたい」
「……知ってる」
「なあに?」
 ほんの少しも、ためらわずに聞くのは。興味があるから。興味がないから。興味があるのは、相手が真己だから、なんでも知りたいから。興味がないのは、相手が真己だから、真己が真己であるなら別に、それ以外はどうでもいいこと、だから。
「おれ、珠美先輩が好きだったんだ」
 過去形に、珠美は小首を傾げる。
「え、あれ、今は嫌い?」
 そんなことを聞く珠美の手を、離さない。
「元気で、かわいいなと思って、そういう、珠美先輩の形をした珠美先輩が、好きだった」
「かたち?」
「珠美先輩、おれが好きですって言ったら、ありがとうって言った」
 言ったねえ、と珠美が笑う。
「ありがとうって、言ってくれた、ふわっとした感じの、その形のないなにかが、好き。珠美先輩が、こういうふうに」
 繋いでいる手とか、そういう、かたちが、
「こういう形でも、形でなくなっても、好きで、そういう、好き、で安心できるおれが、珠美先輩の隣にいるから、安心する」
「ええと、それはつまり?」
「珠美先輩が、好きってこと」
 珠美は顔を赤くして、どう返事をしたらいいのか、恥ずかしそうにうつむいたから。
「先輩、顔あげて。おれを見て。ありがとうって言って」
 珠美は顔を上げる。望んだ言葉を言う。
「おれ、先輩がいればいい」
 こどもが、こどものうちに言うことのできる言葉がある。
「……あいつ、いらない」
「誰?」
「ハハオヤ」
 父親が連れてきた新しい誰かは、そのかたちも、かたちのないなにかも、安心ができない。なにかどこかが痛くなるばかりで、上手くいかない。
 もう少し真己がこどもだったころ、エプロンをした後姿に甘えるように抱きついたら、ひどく驚かれた。……驚かれた、んじゃない。嫌がられた。嫌な顔ひとつしないで、言葉にもしないで、でも、それ以外のどこかすべててで、こどもは嫌いだと拒否をした。
 気がつかなければよかった。でも気がついた。
 それ以後、なにも、なにひとつも、うまくいかない。かたちがない。ことばがない。なにもない。
 ゆがんで曲がったままの、なにかしかない。
 真己は、ハハオヤ、と呟いたきり口を閉ざす。
 だから、珠美には伝わらない。
 なにが、どう、であるのかなんて、伝わらない。
 でも、
「じゃあ、一緒にいればいいよ」
 珠美は繋いだ手を大きく振った。
「真己くん今度は、あたしの後姿を見かけたら、ちゃんと声かけてね」
 真己のなにかを察したのか察していないのか。真己のなにかを気遣ったのか、ただ、そう言いたかっただけなのか。
 きっと、そう言いたかっただけ。
 珠美が、そうしたかっただけ。
 真己は、
「声……だけ?」
 意味ありげに、回り込んで、珠美を正面から見た。
 真っ直ぐに見てくるから、真っ直ぐに見返したら、見つめた瞳が、一度大きく瞬いて、
「だけ、って?」
 聞き返してきたから、答えた。
「抱きついてもいい?」
 ええ!? と予想以上に驚いた珠美の手を、離さない。
 離したくないから、離さない。



04.終わり

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05.埋まらない距離[女子高生×中年親父] へ






































   05.埋まらない距離[女子高生×中年親父]



  人通りの多い駅前を、逃げるようにいくから追いかける。
「ねえ、ねえ、待って!」
 安っぽい薄いコートが寒そうに背中を丸める、若くは見えないサラリーマンを制服姿の女子高生が追いかける。少し異様な光景を、すれ違うひとびとが振り返って見送る。
 中年サラリーマンと女子高生。追う方と追われるほうが逆だったなら、通報する人もいたかもしれない。
 サラリーマンは、しばらくの間逃げ続けていたけれど、やがて体力の限界で立ち止まった。
 追いついた女子高生は、コートを掴まえて、離さない。
「武司くん、捕獲!」
 サラリーマンは、息を切らしながら、
「……君、ねえ」
 恨めしげに、振り向きもせずに、やっとそれだけを呟いた。
「君、じゃないっ」
 と頬を膨らませれば、膨らませた顔を見たわけでもないのに、見たように、
「古都子ちゃん、君ねえ……」
 と、たいして変わらない言葉が返ってきた。そのついでに、
「僕にもう声かけないでって言ったよね」
 あんまり面倒そうに言うから、ムキになった。
「言ったけど、聞く気ないもん」
「君ねえ……」
 もうすっかり口癖になっている言い方に、すねを蹴飛ばした。
 痛いよ、という呟きを無視して、
「あっちのスタバか、そこのファミレスか、向こうのホテルに連れてって」
 一見、三択、に聞こえるけれど。
「じゃあスタバで」
 コーヒー飲みたい、と言い訳のように言いながら歩き出す。古都子は、掴んでいたコートを引っ張った。
「そーゆーとこは、武司くんみたいな中年落ちぶれサラリーマンが、ぴちぴち女子高生の私と一緒じゃ世間体とかテイサイとかどーのこーので、行きたくないって武司くんが言った」
 だから、ここは、暗黙に、というか、はっきりと、
「ホテル行く。行こ」
「行かない」
「なんでぇ?」
「君ねえ…………」
「なんで? なんでそんな嫌な声? 私、そんなに駄目だった? なに、もっと熟女? とかじゃないと駄目? でもそれはさ、もーちょっと待っててくれれば年なんて勝手に取るし。って、いいじゃん、若いにこしたことないでしょ? 私、武司くん、ぜんぜんオッケーで気持ちよかったけど、武司くんはそんなに駄目だった? よくなかった? ご飯一緒に食べたときとか、楽しそうだったのに、えっちしたらやっぱり駄目だったの? そこ? 問題はそこ?」
「……そういうことを、大声で言う……」
 しぶしぶと、やっと振り返った武司は、振り返っていく人の流れから隠すように、古都子を自分のコートの影に抱き込んだ。
 古都子は、抱きこまれて、掴んでいたコートを離す。
 コートを離すと、武司が安心した、ようだった。
 古都子は、コートの代わりに、ネクタイを掴んだ。
「私が嫌っていうなら、なんでこのネクタイしてるの?」
 ごくごく普通の、ただのネクタイ、だ。
 どこかのブランド名が入っていた気もするけれど、そういうこと、ではなくて。
「武司くんだって、私、嫌じゃないよね?」
「……その呼び方もやめてくれないかな」
 落ちぶれサラリーマンは、まるで他人の名前でも言われている気分で、
「むずむずして、落ち着かない」
 正直な気持ちを言う。
 古都子は、武司の言うことなど理解できない。
「だって、武司くんは武司くんでしょ。名刺くれたもん。偽名なの?」
「そういう意味じゃなくて」
「なに? どういう意味?」
「なんで僕は、女子高生にそんなふうに呼ばれてるんだろうな、と」
「だから、それが武司くんの名前だからでしょ」
「違うってば」
 意味が通じない。通じ合うには、どうにも、ふたりの色々な距離が離れすぎていて、埋まるわけがない、のに。なのになぜ、今こうしてここに、ふたりがいるのか。
 武司はわからない顔をする。
 古都子は、武司がわからない顔をするのがわからない顔をする。
「武司くんは、私の遊びに付き合ってくれたみたいな顔をするんだね」
 実際そうだろう、と、言いたそうな顔をして、
「思ってないよ」
 そう言ったのは。
 女子高生と、中年親父、の関係を。
 誰が、誰もがどう見るのか、といえば。
 言い訳ができないのは、男のほう、だから。
 言い訳はしないし、むしろ、遊び相手に選んでもらっただけでも光栄だと、思う。けれど。
「思ってないなら、逃げないでよ」
「逃がしてくれよ」
「なんで?」
「これでも、罪悪感でいっぱいなんだよ」
 ザイアクカン? と古都子は、そんな言葉初めて聞いた、と首をかしげる。
「ザイアクカンって、なんだっけ? 学校で習う言葉?」
 ……習ったと思うけど? と、見上げる古都子から武司は目をそらす。
「僕には、君くらいの娘がいたっておかしくないって言うのに」
 結婚を、していたなら。家庭を築いていた、なら。
 そのすべてを、持ってはいないけれど。夢見ない事は、ない。なのに。まさか。
 その夢の中で見る、娘ほどの年の少女に、手を、出した、なんて。
「……気持ちが悪い」
 吐き捨てるように言った言葉の行方を、古都子は、きょとんと、眺めた。
「私は、気持ちよかったんだけど」
 武司くんなに言ってんのかわかんない、という態度の古都子を、この子はなにを言ってるんだ、とうっかり直視した。
 やっと目が合って、古都子は笑った。
「だから、気持ちよかったってば。すごい、あんなに優しくしてもらったの初めてで、なんかもう、どきどきした。彼氏とか、がっつくばっかだったんだもん。がんがんやればいーと思ってんだもん。私もそういうもんだと思ってたけど、違ったんだーって」
「……君、ねえ」
 と言う呼ばれ方では、古都子は返事をしない。
「なんかね、今までだって演技してたわけじゃないけど、とりあえず私もイっとけば相手もイかせてやったぜ、って満足かなーとか、思ってたのに、武司くんとの時は、もう、そんなのぜんぜん考えってなくって、ていうか、なにあれ、じらされるとか、ありえない。イきたいのにイきたくなくてもっととか思っちゃうなんてありえなくない?」
「古都子ちゃん」
 と呼ばれて、やっと、
「はい?」
 と返事をした。
 見上げれば、複雑そうながらも自分をちゃんと見てくる目に、安心して、抱きついた。
「優しく、してもらって、もっと好きになるのは駄目なの?」
「優しくなんてしたつもりないよ」
「じゃあ、あれが武司くんの普通なんだ、もっと優しくしてって言ったら、もっとどきどきできるんだ?」
「する気はないから、彼氏君のところに戻りなさい」
 離れなさい、と引き剥がされて、古都子はなにか、おかしな言葉を聞いた、という顔をした。変な顔してないで、と武司が呟いたくらい変な顔をして、
「君には、悪いことをしたと思っているよ。謝ってすむことではないけれど」
 言いながら自分自身で、最低だな、と天を仰ぐ武司を、古都子は指差した。人差し指で。はっきりと、間違えようもないくらい。
「私の、彼氏くん」
 人差し指を、武司の胸に、突き刺す。
「は、武司くん、でしょ?」
「は?」
 なにかとんでもないことを聞いた、と間の抜けた返事をする武司に、
「私、こう見えて、彼氏じゃないひとにご飯おごってもらったりとかしないもん。えっちもしませんー」
 ぎょっとするのを通り越して呆然とする武司は、逃げも隠れもできる状態ではないようだったけれど、また、古都子に抱きつかれて、逃げも隠れもできなくなる。
「てことで、彼女の面倒、ちゃんと見て。遊びじゃないよ。本気だよ。運命じゃないかな、とか思ったんだよ。でも別に、武司くんは、こどもの遊びに付き合ってやってるとか、そういうのでも、いいけどね。……いいから、ちゃんと付き合って。逃げないで」
「……君、ねえ」
 君、と言われても古都子が反論しなかったのは、武司が、仕方なさそうに古都子の頭を撫でたから。
「そういう優しいのが好き」
「こども扱いしてるんだけどね」
「こどもでいいもん」
 武司くんとじゃ、ぜんぜんこどもだもん、と古都子は満足そうに笑った。


 冬休みに、親戚のつてで百貨店のバイトをした。雇う方はなにをどう考えたのか、なにをどう、勘違いしたのか、古都子を紳士服売り場に配属した。
 おかげで年始には大賑わいの福袋商戦に巻き込まれることもなかった。客の相手をするのも、会計も、大抵はベテランの店員が対応した。古都子は、商品を出したり並べたりたたんだり、する。
 ふと、気付いたことがあって、聞いてみた。
『ネクタイって、これだけの数を売ってるのに、同じ柄のものってないですよね』
 気にしたこともなかったけれど、同じネクタイをしているひとを見かけることも、ない。といえば、そういうふうに売ってるんだよ、と教えてくれた。
『へー』
 ひとつだけ、気になる模様のネクタイがあった。誰が買っていくのかといつも注意をしていたのに、休みをもらった翌日に出勤したら、売れていた。
 そのネクタイを、偶然駅で見かけて追いかけた。
『あのっ、そのネクタイ、□□百貨店で買いました!?』


「ねえ、お腹すいた。お腹すかない? 私、この間のバイト代入ったからおごるからご飯いこ? 焼肉がいい。にくにく。おいしくて安いお店知らない? おじさんばっかのお店で、私が入っていったらびっくりされるようなお店ない?」
「知らないよ」
「えー、そういうお店でね、武司くんは、このかわいい子が僕の彼女ですよって自慢するといいと思うよ」
「……君ねえ」
 つい今さっき、追いかけっこをした道を戻る。古都子のあとを、武司がゆっくり、着いていく。



05.終わり

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06.友情を超えた愛[男×男] へ






































   06.友情を超えた愛[男×男]



「初めて彼女ができました。だから、その練習。ということでどうだろう」
「……どうだろうとはどういうことだろう」
「ちゅーしたくね?」
「……したくないことはない」
「てゆーか、したい」
「……まあ、どちらかといえば」
「では」
 よし、と気合を入れて向かい合って、相手の肩を両手でがっちり引っ掴んで、引き寄せて、唇が触れる寸前でちょっと顔を傾けたりすれば完璧だ。
 と、思わないこともない。
 が。
「……いやいやいやいや、まてまてまてまて」
「なんだよ」
「……おれにやらせろ」
 と、直が口にした一人称に、
「あーーー! ばか、おまえっ」
 友久は、引っ掴んでいた直の両肩をがくがく揺さぶった。
「おまえが『おれ』とか言わなきゃ、ここまでの文章の流れ的には男女のイトナミで通ったのにっ」
 と言われて、直は今までの流れを振り返る。
「……そうか?」
 男女に……?
「……通らないだろ。とりあえず、イトナミとか言うのはなんか違う」
「そうか?」
「……そうだろ」
「そうかなあ?」
「……そもそも、練習とか、何かにカコつけてる辺りからなんか違う」
 ものすごくそもそも、ここにいるふたりの性別からしてなにか違う、とは根本的過ぎて直も突っ込めない。
 直は、自分の肩を引っ掴んだままの友久の手を、ぺ、と払った。
 友久は、え? と納得いかないように、
「今日のチャレンジ終了?」
「……終了」
 と言い切られて、ちぇー、と舌打ちする。それから、まあいいか、とレンタルしてきたばかりのDVDを直に投げて渡した。
「オレ着替えるから。それ、セットして」
「……おれも着替えて来ればよかった」
 友久の部屋で、直は学生服の上着だけ脱いで部屋の隅に適当に丸めて置くと、よっこいしょ、とDVDをセットする。
 その、格好の、直の、腰を、ぺろっと友久が撫でた。
「……どこ触ってんだよっ」
「いや、肉付き悪ぃなあと思って」
「……いちいち女と比べるなら、女にしとけよ」
「いや、だって、しかし、おまえ」
「……なんだよ」
「そんでもなんかおまえがいいんだからしょうがないじゃん?」
 じゃん? とか、聞かれても。
「……あ、そ」
「そーなんだよ」
「……そーですか」
 DVDをスタートさせる。その一瞬、なぜか緊迫した空気が走る。
 半年前にはやったアクション映画が始まる。
「あ、おまえっ、やっぱやった! 字幕にすんなよ。やだっつってんだろ」
「……洋画なんだから字幕だろ」
 友久は、直からDVDのリモコンを奪いにかかる。
「吹き替え入ってるんだから吹き替えでいーじゃん、楽ちんじゃん、吹き替え吹き替えっ」
「……おまえ英語苦手なんだから、勉強のつもりで見ればいいだろ」
「あ!」
「……なんだよ」
「べんきょーといえば、洋画見た後って、あ、字幕の方だけど、なんか英語喋れるよーな気になんない?」
「……気のせいだけどな」
「そーかー?」
「……そーだろ」
 DVDのリモコンを取り上げかけられた直と。
 DVDのリモコンを取り上げかけた友久は、
 なんだか不自然に引っ付いていて、そのまま友久が、直を、ぎゅうと抱き締める。
 結局、リモコンは取り上げないままだったので、映画は字幕で進んでいく。
「なー、ずっと字幕で見んの?」
「……英語、喋れるような気になっていいだろ」
「そっか」
 よくはないけれど、いいような気もする。
「……そーだよ」
 そうでもない気もするけれど、まあいいかという気がする。 
 抱き締めたままなのも、暖かいからちょうどいいや、という気がするし、
 抱き締められたままなのも、暖かいからちょうどいいか、という気がするし。
 これだけ密着オーケーなら、映画なんか見ている場合じゃないような気もするけれど。じゃあなにをするのかと考えると、ナニをするまでの決心はまだ、つかなかったり、する、ので。
 今はこのまま。
 このままで。
「……んで、いつまで引っ付いてんだよ」
「一生?」
「……長いなっ」
「んじゃ、映画終わるまで」
「……映画、終わったら離れろよ」
「んー、考えとく」
 その気があるようなないような返事をした。
「……考えてないで、映画見ろよ」
 その気もないようなあるような返事を、した。




 おまけ。
 06の別バージョン。脚本を手にした高橋少年は、脚本を速攻焼却処分にしたようです。


 体育倉庫の物陰で膝を抱えている姿を、やっと見つけた。
 校内中走り回って、やっと、見つけた。ぜいぜいと体中で息をしながら、叫んだ。
「なんだよ、ここかよ! わっかんねーよ、こんなトコ。てゆーかおまえ、よくこんなトコ見つけたなって話だろ。そんでおれもよくこんなトコにいるお前を見つけたよな、って話だろ」
 頭ごなしに叫んでも、返事もなければ、視線を向けてくることもない。
 肩口を、痛くはない程度に蹴飛ばした。
「なんか言えよ」
 なあ、と同じ学生服を来た相手の名前を呼ぶ。
「高橋ぃ」
 そんなとこで丸まってんなよ、と差し出した手は、蹴飛ばしたのと同じ肩口に触れた瞬間、振り払われた。その勢いで、立ち上がった、かと思えば、仕返し、だと蹴飛ばされた。容赦のなさに、腹を抱えて座り込む。整っていない呼吸の合間に、けほ、と咳き込んでいると、
「……望月おまえさあ」
 見上げた先で、なにか言いたそうな顔が、ふいと横を向いた。
「なんだよ」
 と聞けば、なんでもない、と返ってくる。
「なんだよ、言えよ」
「……望月は、あいつのほうがいいんだろ」
「あいつ?」
「植田センパイ」


 ……笑えたらそれでいいんじゃないかな。



06.終わり

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 07.たった一人の器[主人×奴隷] へ






































   07.たった一人の器[主人×奴隷]



 風が吹くたびに、砂っぽさに目を細め、喉の渇きに息を飲んだ。
 容赦なく日の照りつける場所を、裸足で駆けた。
 どこまでも続く砂に足を取られて、砂の中へ倒れ込む。生地も仕立てもいい衣服が焼けた砂にまみれる。
 気まぐれな砂の動きに足を取られたまま立ち上がれずにいると、
「どうした、そこまでか」
 それならそれでかまわないぞ、と揶揄する声が響いた。
「逃げたい、と言ったのはおまえだぞ」
 からかっている、そしてなぜかわずかに怒りを含んだ声を、リンは顔も上げられずに聞いていた。
「嘘を言ったわけではないだろう」
 それなら逃げればいい、と責めるように続ける。
 リンは、手のひらを握り締めた。
 手の中には、熱い、砂。
 砂に触れている全ての部分が、熱い。
 リンは、ゆっくりとあげた眼差しで、砂漠の果てを見た。
「……あなたから逃げることができれば、わたしを解放してくださると……」
「言った。それができるのなら、すればいい」
「できないと、思って、いるのでしょう……」
 見上げても、逆光で、馬上の表情までは読み取れない。
「……ユワン、様」
 力なく呟いたのは、諦めたから、ではなかった。
「お願いです。弟たちに会わせてください。そうしてそのまま、わたしを逃してください」
「それがおまえの望みか」
「望み……」
 リンは、思いも寄らなかった言葉を聞いたような顔をした。途方に暮れ、やがて、泣き出すのを隠すように、うつむいた。
「望みでは、ありません」
 握り締めていた砂を、風にのせて流した。さらさらと砂がこぼれていく。砂漠の一部が、砂漠に、還る。
「本来あるべき、わたしの、姿です」
 砂が、砂漠の一部であるように。リンもまた。
「奴隷だった身分が、恋しいとでも言うのか」
 強い日差しでできた、濃い影が動く。
「あの生活から救い出してやったおれを憎いとでも言うのか」
 馬上から降りた影が、苛立たしそうにリンの二の腕を掴んだ。
「弟たちにも身分を与えた。おまえには最高のものを与えている。食事も服も! 後はなにが足りない!」
「……望めば、今以上のものを与えてくれる、と?」
「言っている。いつでも。だがおまえは何も言わない」
「今でも、十分すぎるほどです」
「ではなんの不満がある」
 ユワンが、顔をそらし続けるリンのあごを取る。自分だけのものを扱うように、乱暴に、自分に向かせる。
「おまえはそれを、言えないのか。言わないのか」
「……言え、ません」
「言えと言っている」
 力任せに二の腕を引かれ、リンはユワンを間近で仰いだ。言わなければ許されないという思いは、悲しみにも恐怖にも似ていた。
「……もとより、着飾ることに興味はありません。己の分をわきまえています。こうしたいと、思ったことも、ありません」
「だがおまえは今、こうしていて、美しい」
「……もしも」
 ユワンを直視できなくて、砂にまみれたままの手のひらで顔を覆った。
「もしも、わたしの姿かたちが、こう、でなかったなら」
 リンは自分の容姿を気にしたことなどなかった。それでもユワンの目にとまった。ただ気まぐれに、拾い上げられただけだった。
 それならそれでかまいはしない。好きなように扱えばいい。そうされるためだけにある命だった。己の身分をわきまえている。気分ひとつで殺されても、恨みはしない。仕方がないと、それがこの身分に生まれてきた運命なのだと思っている。悟っている。それ以上のことを考えはしない。考えたことはない。
 けれど、
「もしも、わたしの姿かたちだけを、そばに置きたいのだとおっしゃるのなら」
「いつかおれがおまえを捨てると思っているのか。それを恐れているのか」
「いいえ」
 そんなことは当然のことだと、思っていた。思っている。
「恐ろしいのは、そんなことではありません」
「ではなにが恐ろしい」
「ただ……」
 その場に崩れて、そのまますべてが消えてなくなってしまえばいいと思うのに。強く掴んだままのユワンの腕がそうさせない。
「……なぜ、弟たちと会わせてくれないのです……」
「そばに置けば、おまえはやつらばかりを気にかける」
 その、こどものような独占欲が、
 いつか、こどものように気まぐれに。
「わたしは」
「なんだ」
 言えと言われて、飲み込もうとした言葉を口にした。
「わたしが、恐ろしい」
「……おまえが?」
 思ってもみなかったことをきいた、とユワンは笑った。
「おまえのなにが恐ろしい。なにか企てようとしているのか。おれの命でも狙おうと言うのか」
「あなたの、思いを、いつか勘違いするわたしが、愚かで、恐ろしいのです」
 なにが言いたい、となにかを推し量ろうとする眼差しに、
「ユワン様に助けられてからのすべてのことに感謝をしています。この気持ちを、ユワン様に優しく触れられるたびに生まれる気持ちを、自分の都合のよいものへと置き換えようとする自分が、恐ろしい」
 そんなことをしでかす前に、逃げなければ。逃がしてもらわなければ。
 なのに、ユワンは確認をするように問う。
「おまえの都合のいいものとは何だ」
 リンは大きく首を横に振った。
 言えるわけがない。言っていいわけがない。
「言え」
 掴まれた二の腕が痛い。
 それ以上に、まっすぐなユワンの眼差しが、痛い。皮膚を通して、ちりちりと、血肉の奥のどこかなにか、かたちのないものに突き刺さる。
「いつか、あなたに捨てられてしまう前に、見限ってください。やはりそうだったのだと、思わせてください」
「おれがおまえに惹かれたのはその姿かたちだけだと」
「お願いです」
 どう言えば逃がしてもらえるだろうか。
 どう言えば。
 どうすれば。
「……どうか、わたしが、馬鹿なことを、考える前に」
 たとえば。強く。
 ユワンが、リンを、想っていると。勘違いをして。
 リンがユワンを、想っていると。勘違いをする前に。
 惹かれた心を強く自覚する前に。自覚をした途端、裏切られる前に。まだ、今なら、このひとを失っても大丈夫だと、思えるうちに。
 からだが傷付くのは怖くない。けれど心に傷が付くのは怖い。
 だから、
「お願いです」
 今までどおり、弟たちと生きていたい。
「逃がしてください。そうでなければいっそ、殺してしまってください」
 ほかの、奴隷たちがそう扱われるように。当たり前のように。ためらいもなく。
「……リン」
 覗きこんでくる眼差しを、避けるために目を閉じた。
 次に目を開くときには、弟たちがいればいい。そうでないのなら、もう、開くことなどなくていい。
「リン」
 呼ぶ声に、目を開けろ、と誘惑されても。開くことのなかった目を、
「おれはとうに、おまえのおれへの優しさを、おれの都合のよいものに置き換えている」
 砂で汚れた頬をユワンに撫でられ、
「だから逃げたいのだと言うのなら、もう遅い。逃がしはしない。おまえが馬鹿なことを考え付くのを待って、決して手離さない」
 目を、開けば。
 静かに、聞かれた。
「おまえは、どんな馬鹿なことを考えた。なにを愚かで恐ろしいと思っている」
 熱い、ばかりの砂の上で、もうずっと、リンに負担のかからないように、ユワンは太陽を背にし、自分の影でリンを守っている。
 守られている腕の中で、リンは、自分を守っているひとの袖口を、遠慮がちに掴んだ。
「……わたしが、ユワン様を、愛している、と」
 それから、
「ユワン様が、わたしを……」
 流れた涙のせいにして言えなくなった言葉を、ユワンが言う。
「愛しているよ」
 口にした言葉ほど確かなものはなくて。
 リンはユワンの胸にすがって泣いた。
 愚かなことを言うこのひとが、恐ろしい。
 今、手に入れたものよりも、この先を思って涙が溢れた。
 奴隷女を戯れでなく傍に置こうとするのを、誰も許しはしない。リンは許されたいわけではない。でも、ユワンは、自分の考えを押し通すのだろう。
「リン」
 リンはユワンに抱き上げられた。太陽に近付いた分、砂の熱さは遠ざかり、空気の熱さに包まれる。不安定に抱き上げられて、しがみ付くと、そうしたことで機嫌をよくしたように、
「この先、おまえがなにかを恐れる必要はない。おれの器をみくびるな」
 リンは、熱くて、眩しいばかりの場所で、ユワンが鮮やかに笑うのを見た。



07.終わり

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 08.あるのは形のないものだけ[ニート×ホームレス] へ






































   08.あるのは形のないものだけ[ニート×ホームレス]



 今からうちに来る? と送信したら、行かない、とだけ、返ってきた。
 暗い部屋の中でこうこうと明りを放っているパソコンの画面を眺めて、ユイは勢いよく打った長文を、消して、ひとことだけ、送信した。
 じゃあ、明日ね。
 相手の返事は待たない。待ってもきっと、返ってこない。
 パソコンの電源を落として、ベッドに潜り込んだ。
 眠りたい時間に眠る。目が覚めた時間に起きる。
 カーテンの隙間から差し込む光は、すでにずいぶん高い角度からのものになっていて、ユイはのろのろと起き上がった。カーテンは半分開けたところで、眩しさに顔をしかめて、閉じた。昨日食べかけのままにしておいたスナック菓子を口に放り込む。適当に身支度を済ませると、いってきます、と口の中だけで呟いて玄関を出た。台所にいた母には、ユイが出て行ったことに気がついたのか、気がついていないのか。ユイには、興味がない。……ない、振りをする。
 電車でいくつかの駅を過ぎる。登校時間も出勤時間もとっくに過ぎた車内はすいていて、空いている席の、隅に座る。このまま、環状線を一周しようかどうか、少しだけ考えて、結局、次の駅で降りた。
 賑やかな駅前を、ひとよりもゆっくり歩く。街を抜けて、住宅街を抜けて、一級河川の土手を降りる。
 日当たりがいい以外になにもない場所で、サカエは丸まって座り込んで、文庫本を読んでいた。
「おはよう」
 と声をかけたら、
「こんにちは」
 とだけ言って、文庫本から顔も上げない。
 ユイはサカエの隣に同じように座り込んで、文庫本を覗き込むように、サカエの肩にもたれる。ポケットから出した携帯をのんびりと眺めた。
「ほんどだ、もう、こんにちは、だ」
 時間の感覚のなさに、おかしくなる。くすくすとひとしきり笑って、それからやっと気がついたように聞いた。
「あれ、サカエは今日仕事は?」
「あったけど、いいや」
「いいの?」
「ユイが、じゃあ明日ねって、言い逃げしたからだろ」
「チャットでも言い逃げって言うの?」
「知らない。今日は仕事あるから来ても会えない、って書き込む前に退室しちゃうし」
「別に、サカエがいなかったら、ああ仕事入ってたんだなあって思うだけだよ。仕事、サボるとそこんとこの派遣の登録、抹消されるって言ってなかった?」
「明日は別の派遣の仕事が入ってるし。派遣会社なんて腐るほどある」
「そっか」
「ユイも、派遣、登録すれば?」
「んー」
 ユイは気のない返事をする。
 サカエも、特に強く勧める気はなさそうに、
「正規の雇用を前提にした仕事だってあるよ」
「じゃあサカエもそれにすればいいのに。働く気はあるんだから」
「ぼくは、日払いんとこじゃないと困るから」
 喋っている、のに、サカエは文庫本のページをめくる。見てみると、目は文字を追っているのでちゃんと読んでいる、らしい。
「昨日は、どこのネットカフェだったの?」
「いつものトコ」
「駅の裏の?」
「そう」
「うちに来ていいよってば。お母さんとか、別に気にしないよ、もうひとりいつも家にいる人間が増えたって」
「ユイだけならいいけど。他の、人とは、住みたくない。だから家、出てんのに」
「そっか」
 そうだったよね、とユイは表情を隠すようにうつむいて、サカエに甘えるように擦り寄った。
 サカエは読書の合間にユイの髪をなでる。
 なでていると、ふと、あることに気がついて、ユイの顔を覗き込んだ。
 覗き込まれて、ユイは、ばれちゃった、と笑った。
「なんだ、ぼくに同情して泣いてるかと思ったら」
 さっきからずっと、笑っていた。
 なに笑ってるの、と聞かない代わりに、サカエは相変わらず文庫本から目を離さないまま、ユイの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
 サカエはあまり感情を表情に出さない。
 ユイは、隠す感情などなにもないように、笑う。
 春はまだ先の寒さに、風が吹けば身をすくめるし、
 なにをどんなふうに手にしてたらいいのかも、なにをどんなふうにしたら欲しいものが手に入るのかも、そもそもなにが欲しいのかも、よく、わからないけれど。
 なにがなくても。なにをなくしても、ほかのなにが手に入らなくても。
「わたしも、サカエだけなら、いいよ」
 意識的にも無意識にも、だけ、と言い切れるものがある。
 かたちはない、から。どこへでも、持っていける。 
「ねえ、家からお菓子いっぱい持ってきた。食べる?」
「うん」
 今はふたりで、ここにいる。



08.終わり

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 09.お互いの共通点[OL×社長] へ






































   09.お互いの共通点[OL×社長]



『あ』
 まさに、ひとくち目を頬張ろう、としていた彼女と目が合って、お互い、また会った、と言いたそうに目をそらした。
 昼飯時の店内で、一志は空いた席を探すけれど見つからず、結局、花珠保の向かいにかけた。
 花珠保は慌てて口の中のものを飲み込むと、
「当たり前の顔をして、同じ席に着かないでください」
 まるで、断りもなく同席した赤の他人に話すように話しかける。
 一志は、だってしかたないじゃん、と満席の店内を見渡した。
「おれだってお腹すいてるし」
 おいしそうだねなに食べてるの? と聞けば、日替わりランチ、と素っ気無く返ってくる。一志は店員を呼び止めると、同じものを注文した。注文したものが来る間、なんとなく、何気なく、花珠保を眺める。
 会社が支給する紺色の事務服に、自前の白のブラウス。黒縁の眼鏡に、後ろでくくっただけの長い髪。なんとなく気になってテーブルの下を覗き込めば、黒のタイツに、黒のパンプス。
 どこ見てるんですか、とつま先で蹴飛ばされて顔を上げれば、きれいな姿勢。きれいな箸使い。
 見惚れ、かけた自分に気がついて、ごまかすように、
「これでも社長なんだから、蹴飛ばさないでくれるかな」
 と言えば、
「社長がセクハラしないでください」
「なにがセクハラ?」
 言ってから、ああそうだっけ、と。
「足、見たから?」
 隣の席のサラリーマンが、足? と振り返る。花珠保は、自分には関係がない、という素振りをする。
 一志はなににもかまわずに、
「いいじゃない、おれのなんだから、どうしようと、いつ見ようと」
 にっこり、笑えば、花珠保は何か言いたいことを味噌汁と一緒に飲み込む。さらに言いたいことを、揚げ物と一緒に飲み込んで、次に言いたいことは漬物と一緒に飲み込んだ。
「そんなに慌てて食べたらからだに悪いよ」
「時間がないんです」
「時間?」
 腕時計で時間を確認すると、昼の休憩時間の残りは、確かに少ない。
 運ばれてきた自分の昼食に、いただきます、とのんびりと手を合わせている間にも、花珠保は自分の昼食を片付けていく。
「時間がないのは分かったけど、もうちょっとゆっくり食べてくれたら、もうちょっと一緒にいられるのに」
「……社員にそんな気を遣わせないように、社長は高くてゆっくりでおいしいところにお昼、食べに行けばいいと思いますけど」
「安くて早くておいしい、にこしたことはないじゃないか」
「社長でも、そんな庶民みたいなこと言うんですね」
「社長でも、別に貴族とかじゃなくて庶民だから」
 そこのところ勘違いしないように、と念を押す。念を押すついでに、
「会社の外では、社長って呼ぶのやめてって言ってるよね。その敬語も」
「まだ勤務時間内です」
 中途採用した彼女は、真面目で飾り気がなくて、他の社員はわりとフレンドリーに接している年下の社長にも融通が利かない。でも、四角四面の角がかちかちとトゲのように痛いかといえば、そうでも、ない。
 さっさと食べ終わった花珠保は、さっさと席を立たずに、食後のお茶をゆっくり飲む。
 いつでも、不自然なくらい、ゆっくり飲む。目が合えば、早く食べちゃってください、と言いたげに睨むけれど。時間ぎりぎりまで、一緒にいる。
「そういえば、この店で一緒になったのは初めてだねえ」
「……わたし、この店に来たのは初めてなんですけど」
「あ、おれも初めて」
 会社付近には大衆食堂がたくさんあった。他の女性社員は、もう少しこぎれいな店に出向くことが多いようだけれど、花珠保は気ままに、あちこちの店に入っているようだった。
「この間初めて行った店でも会ったよ。ほら、一本向こうの通りの」
「……あのときも、わたしも初めて行った、んですけど」
「そうなの? じゃあ、その前のときも?」
「みたい、ですね」
「食べたいなーと思うものと、それに対する行動パターンが似てるのかな」
「さあ」
 どうでもよさそうにする花珠保は、飲み終わってしまった空の湯飲みを手のひらでもてあそぶ。
 ほんのしばらく、食事を忘れて、花珠保を見つめる。
 入社してきたときは気にも留めていなかった地味な社員と、なぜかよく昼食を取る店が同じになることがあった。特に会話が弾むわけでも、なかった、けれど。同じものを食べて、同じように、おいしいと、思えることは、思ったよりもずっと、なにかの居心地がよかった。
 なにかがなにだなんて、よくわからないけれど。
 気がつけば、気が付かれないように、そうだとばれないように必死に、口説いていた。化粧をしている普段のほうが地味で、すっぴんになったほうがかわいいなんて反則だった。
 花珠保が湯飲みをテーブルに置いた。お昼の休憩が終わります、と立ち上がった花珠保を、
「ねえ、今夜、高くてゆっくりでおいしいところに、ご飯、いかない?」
 誘う。
 ほんとうは、今日はそういうものが食べたい気分ではなかったけれど、今までの経験上、女性を誘うときはそう言った方が乗ってくる確率が高かったので、身についた習慣で、反射的にそう言っていた。
 花珠保は、別にいいですけど、という顔で一志を見下ろして、でもやっぱり、そういうものが食べたいわけではない、ように小首を傾げて聞いてきた。
「社長、今日は遅いんですか?」
「いや、別に」
「実家から牡蠣、を送ってきたんですけど、お鍋、じゃ駄目ですか?」
 鍋が、食べたい顔をして言う。
 一志は、やられた、という顔で。
「……鍋、でいい」
 いい間違えて、言い直した。
 金はある。敷居の高い店も悪くない。でも。
「鍋が、いい」
 今日は、そういうものが食べたかった。 
 おれの家? と聞けば、鍋あります? と聞かれて。
 ない、と答えれば。
「じゃあ、わたしの家で」
 にっこりと笑うわけでも、早く来てくださいね、とかわいい言葉や仕草がついてくるわけでもなかった、けれど。
「では、失礼します」
 ただの、同僚のように、社員のように、部下のように席を立った花珠保を見送る気分は、すごく、悪くなかった。
 ずっとふたりの話を聞いていたらしい隣のサラリーマンが、なんとなくうらやましそうな顔をしたのを見て、うらやましいでしょいいでしょ、という顔を返した。



09.終わり

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10.もう会えない[警察官×犯罪者] へ






































   10.もう会えない[警察官×犯罪者]



 「ナーナ、ナーナ!」
 彼女の名前なら、もう幾度も呼んでいた。
 けれど、
「ナーナ!」
 暗闇の中、こんなふうに、大きな声で、責めるように呼ぶのは、初めてだった。
 呼びたくない。こんなふうには、こんな声では、彼女を呼びたくなんかないのに。
「ナ……ナーナ!!」
 汗ばむ手のひらを握り締めて、彼女を、呼んだ。
「なあに」
 振り向いた彼女が、静かに言った。どれくらい細いかよく知っている指先が、セイの足元を指差した。
「一歩、そこから入ってくれば、セイ、あなたもわたしと同じ犯罪者よ」
 だから、と言いたそうに、くちびるだけが微かに笑ったようだった。泣いて、いるように見えたけれど、笑ったのだ。
「わたしを掴まえるために、あなたも犯罪者になる? おまわりさん」
 セイは、笑っているように見えるナーナのくちびるを見つめた。目を離したら、その隙に彼女がいなくなってしまうような気がして、目が離せない。それでも、彼女の指先が、なんの、感情もないように示した場所を、ゆっくり、指先の動きにつられたように、見下ろした。
 きっちりと敷かれた石畳が途切れた先は、街の外。
 ただ、街の外、であるというだけのその先に、街の人間は出たことがない。出る必要がない。出ることを許されていない。そういう概念がない。
 まるで見えない壁があるように、セイはその先に進まない。進めない。
 見えない壁の先を、まるで、磨りガラスの向こう側を見るように、眼差しを細めて彼女の姿を追った。
「……ナーナ」
 うって変わって、声をひそめて呼んだのは。
 まだ……。
「今すぐに戻れば、誰にも見られていないからまだ大丈夫だと、言いたいの」
 返ってきたのは、問いかけではなくて。セイの心を見透かしただけの言葉、だった。
 セイはその場所から進むことも退くこともできずに、また、ナーナ、と呟いた。
 街の中には、ごく普通に生活をするためのルールだけがある。街の中に不自由はない。
 街の外にさえ、出なければいい。
 街の外へ出ることがこの街最大の違反事項になる。でも、街の中に不自由はないから、街の外へ出ようとするものはいなかった。普段、街の外へわざわざ目を向けるものもない。わざわざ、犯罪者となって処分を受けるものは、ない。
「ナーナ、どうして……」
 ナーナはからだごと、セイに向いた。
「どうしても、こうしても。そこはわたしの街ではないから、わたしはわたしの街へ、帰ろうと思っただけ」
「きみの、街?」
 セイは、まるで初めて口にする言葉を口にしたような顔をした。
「そう、わたしの街」
 ナーナが示したのは、更けた夜の、ずっと向こう。
 セイが、戸惑って眼差しを揺らすと、ナーナが笑った。あいかわらず、泣いているように、笑った。
「あなたの街の外にはなにもないと思った? この世界には、この街しかないとでも、思った?」
 セイは、足元の境界線を見下ろした。石畳が、敷いてあるかそうでないか。それだけの、境界線。
 この境界線の向こうには、なにもないと、
「思っていたでしょう? あなたも、この街の誰もが、思っているでしょう?」
 昼間には昼間が、夜には夜が続くばかりだと。
「この先に続く地面の上には、いくつもいくつも、街があるのよ。わたしの街も、その中にある。あなたの街も、その中のひとつでしかない」
 不意に、ナーナが顔を上げた。気配に、セイも振り返る。
 街の中から、いくつもの明りがゆらゆらと、セイとナーナを探し始めていた。
「あなたが、静かな夜に大きな声を出すからよ」
「だって、ナーナを」
「わたしを?」
「失うと、思ったんだ」
 街の外へ出たものは、重い、処罰を受ける。そう聞いている。以前、処罰を受けたものの姿を、その後見たものはいないと、聞いたことがある。
 ナーナは、おもしろそうに、また、笑った。
「セイはもう、わたしを、失ってる」
「まだ、失ってない」
「いいえ、失ってる」
 目の前に、こうして存在していても。まだ目の前にいても。
 もう、ナーナは街の、外。
「わたしが今すぐに、街の中に戻ったとして、あなたは、なにもなかった顔をしていられるの」
 正義感の強い、おまわりさんが。
「やさしい、あなたが」
 嘘をつくなんて。つき通すなんて。
「無理よ」
 無理だと、
「知っているわ。あなたが、そういうひとだと」
 ちゃんと、誰よりも、ナーナが、
「知ってるわ」
 笑う、と思ったナーナは、今度は笑わずに、ぽつりと、呟いただけだった。
 セイは、手のひらを握り締めたまま、
「きみが、ほかの街から来たとして、きみの街は、この街と違って行き来が自由だと、いうの」
「わたしの街でも、処分をされるわ」
 だったらなぜ、とセイが言うより先に、ナーナはなにかをポケットから取り出して耳に当てた。ぼそぼそとなにかひとりごとを言って、またポケットに戻す。
 その仕草はなんだったのかと言いたげなセイに、
「あなたの住む、穏やかで静かな街が好きだった。そこに住むあなたが、好きだった。わたしの街は、ひどく荒んでいるから」
「その街に、帰るの……?」
「姿を消したままのわたしの捜索が始まったって、友達から連絡が入ったの。この街にいることが知れてしまわないうちに、この街を出ないと」
「……連絡?」
 セイには、初めて聞くことばかりだった。すべてが作り話だといわれれば、そうだったのかと納得できる。
 ナーナを、信じていないわけでは、もちろん、ないけれど。
 ナーナはポケットから、なにか小さなものを取り出して見せた。
「あなたの街では、まだ電気が通い始めたばかりだけれど、わたしの街は、もっとずっと、進んでいるから」
「ここから、きみの街の友人と、会話ができる? 連絡が取れる? 声も届かない距離で?」
 うなずくナーナを、セイはただ、見つめる。
「信じられない?」
 とナーナが聞く。
「よく、わからない」
 と、セイが答える。
 そう、とナーナはほかに説明しようもないように、眼差しを落とした。
 セイの背後に、明りが近付いてくる。
 ナーナのポケットの中では、なにかを急かすように、小さなものが警告のような音を発している。
 セイは、ナーナのその向こうに続く夜を眺めた。
「よく、わからないけれど。ナーナが、この街を出ようとするのは、この街が好きだから? おれのことが」
「興味本位で、街を出てみたのよ。なにがあるのか、誰がいるのか。街の外は、街の中にいるよりも、マシなのか。それを知りたかっただけで、なにかに、誰かに、迷惑をかける気はない、のよ」
「おれにも?」
「あなた、にも」
 言い切って、それでも、ナーナは、
「……でも」
 と続けた。
 でも、それでも、迷惑を、かけても。
 迷惑を、かけるから。処分を、受けるから。その覚悟はある、けれど。でも。
「セイに、もう会えない」
 ナーナはポケットの中のものをうるさげに地面に投げ付けて、踏み潰した。
「どう、なってるの」
 壊れたそれを、見下ろしたまま。
「どうして、わたしはセイに会えなくなるの。どうして街を出たらいけないの。処分てなに。この世界はなに。どう、なってるの」
「……世界」
 セイは、途方に暮れる。ナーナがなにを言っているのか、わからない。
 わかったのは、たったひとこと、だけ。
「もう、会えない?」
 呟きに、ナーナが顔を上げた。
 自分が言っても真実味が無かったその言葉を、セイに言われて、初めて、きちんと、自覚をしたように、泣きそうな顔をした。
 セイは、握り締めていた手のひらを、ふと、緩めた。深く、呼吸した。
 世界、とナーナが言った。
 そんなこと、考えたこともない。
 セイの世界はこの街、だけだった。この街の中に、ナーナが、いたはずだった。この手の中に、ナーナが、いるはずだった。
 失うつもりなんて、なかった、から。
「……ナーナ」
 呼べば、すがるように手を、伸ばされて。
 ルールよりも、肩書きよりもなによりも、大切なもののために。
 セイは、街の境界線を、蹴った。



10.終わり

様々な恋人達で10のお題 終わり
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